H15. 5.30 東京高裁 平成14(行ケ)119 特許権 行政訴訟事件

平成14年(行ケ)第119号 特許取消決定取消請求事件(平成15年5月19日口頭弁論終結)
          判        決
       原    告       三菱マテリアル株式会社
       訴訟代理人弁理士   牛 木   護
       同          外 山 邦 昭
       同          檜 山 典 子
       同          清 水 榮 松
       被    告     特許庁長官 太田信一郎
       指定代理人      栗 田 雅 弘
       同          舟 木   進
       同          大 野 克 人

       同          宮 川 久 成
       同          伊 藤 三 男
          主        文
        特許庁が異議2001−72134号事件について平成14年1月23日にした決定を取り消す。
      訴訟費用は被告の負担とする。
          事実及び理由
第1 請求
   主文と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
 1 特許庁における手続の経緯
   原告は,名称を「内接型オイルポンプロータ」とする特許第3132632号発明(平成6年11月2日特許出願,平成12年11月24日設定登録,以下,「本件発明」といい,この特許を「本件特許」という。)の特許権者である。
   本件特許につき特許異議の申立てがされ,異議2001−72134号事件として特許庁に係属した。

   特許庁は,同特許異議の申立てについて審理した上,平成14年1月23日,「特許第3132632号の請求項1に係る特許を取り消す。」との決定(以下「本件決定」という。)をし,その謄本は,同年2月12日,原告に送達された。
 2 願書に添付した明細書(以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の請求項1の記載
    z個の外歯を有するインナーロータと,(z+1)個の内歯を有するアウターロータとからなる内接型オイルポンプロータにおいて,前記インナーロータの歯数(z:個)と,インナーロータの歯形の創成円の半径(R:mm)と,インナーロータの歯形の歯先円の直径(d1:mm)と,インナーロータの歯形の歯底円の直径(d2:mm)とが下記式 
   0.20≦R・z/(π・(d1+d2)/2)≦0.30

   を満たすトロコイド歯形をインナーロータの外歯に用いたことを特徴とする内接型オイルポンプロータ。
 3 本件決定の理由
   本件決定は,別添決定謄本写し記載のとおり,本件発明は,特開昭58−70014号公報(本訴甲3,審判甲2,以下「引用例」という。)記載の発明であるから,特許法29条1項3号の規定により特許を受けることができないものであって,特許法等の一部を改正する法律(平成6年法律第116号)附則14条に基づく特許法等の一部を改正する法律の施行に伴う経過措置を定める政令(平成7年政令第205号)4条2項の規定により取り消されるべきものであるとした。
第3 原告主張の本件決定取消事由
    本件決定は,新規性の判断を誤り(取消事由1),また,その手続に違背がある(取消事由2)から,違法として取り消されるべきである。

 1 取消事由1(新規性の判断の誤り)
   (1) 本件発明は,数値限定発明であって,数値限定のない公知発明に数値限定を付与することにより,内接型オイルポンプロータにおいて,脈動を低減し流速変化が少ないという,従来の内接型オイルポンプロータと同質ではあるが顕著なピーク的効果を奏するものである。これに対し,引用例は,このような顕著な作用効果が得られる範囲に言及していないばかりか,本件発明では不適当とされるものを含む大幅に広い範囲を漠然と示唆しているにすぎない。数値限定発明の新規性を否定するためには,引用例に係る顕著な作用効果を示す範囲が示されているか,あるいはその数値が当業者が通常任意に選択し得る範囲にすぎない場合に限られる。そうでなければ,数値限定発明は成立し得ないことになるからである。したがって,数値限定発明における数値限定の意義を何ら検討することなく,単に公知発明がその数値限定の値を含んでいるという理由で本件発明が引用例に記載されたものであると判断した本件決定は,誤りである。

   (2) 本件決定は,引用例の内接型オイルポンプロータの諸元を本件発明の条件式「R・z/(π・(d1+d2)/2)」に代入した計算値が,特許異議申立書(甲6)では0.265,特許異議意見書(甲5)では0.080〜0.682であるとして,両者を同義的に扱って判断したが,これらの数値に基づいて新規性を否定した判断は誤りである。
     数値限定発明は,公知発明における数値を限定して構成される発明であって,顕著な作用効果を奏するものであるところ,その新規性及び進歩性が否定される場合とは,その数値が当業者が通常任意に選択し得る範囲にすぎないこと,すなわち,当業者の常識にすぎない場合,又はその数値限定により顕著な作用効果が認められない場合のいずれかである。本件決定は,その効果において顕著な差異があるか否かを検討することなく,引用例の数値が0.080〜0.682であり,本件発明の0.20以上0.30以下のものを含んでいることのみを理由として,その新規性を否定する判断をした。しかし,このような判断が許容されるとすれば,いかなる数値限定発明も成立し得ないことになり,数値限定発明の成立自体を否定するものであって,妥当性を欠くことが明らかである。引用例には,本件発明の条件式である「R・z/(π・(d1+d2)/2)」については開示も示唆もなく,また,本件発明の課題である内接型オイルポンプロータの脈動と流速変化を小さくすることの開示もない。すなわち,引用例には本件発明の構成及び技術課題のいずれについても開示されていないことは明らかである。次に,本件発明の条件式に引用発明の実施例の具体的数値を代入する手法により得られた0.08≦λ≦0.682は,本件発明の0.20≦λ≦0.30と比べて広い範囲となっている。そこで,この引用例で規定されるλの0.080〜0.682が本件発明と同等の作用効果を奏するか否かを検討すると,本件明細書(甲2)の【実施例】の項中におけるNo.1〜13のロータのうち,λが0.20〜0.30の範囲内のものは5個あり,λが0.20〜0.30の範囲外,かつ,0.08〜0.682の範囲内のものは8個である。そして,前者の方が後者よりも脈動特性の実測値が明らかに小さいことが示されている。引用例で規定している範囲は,本件発明の実施例のみならず比較例もすべて含むものであってλを限定したことにはならず,本件発明は,数値限定により顕著な作用効果を奏することが明らかであるから,引用例に本件発明のインナーロータが記載されているとはいえない。

     次に,特許異議申立書(甲6)における引用例λの値0.265について検討すると,この値は,引用例の,離心量eと転円径φBの比feが0.35〜0.5,軌跡円径φCと転円径φBの比fcが0.5〜3.0であるとの記載において,fe=0.45,fc=1.5とすればλ=0.265となるという計算結果に基づくものである。しかし,引用例に記載されているのはあくまでもfe=0.35〜0.5,fc=0.5〜3.0であり,この範囲の中からfe=0.45,fc=1.5を選択したものは開示も示唆もなく,広いfe,fcの範囲の中からその数値を選択する合理的根拠については記載がない。しかも,引用例には,本件発明の目的である「内接型オイルポンプロータの脈動を低減し流速変化も小さくすること」については開示も示唆もない以上,引用例において,fe=0.45,fc=1.5を選択する必然性は全くない。したがって,λ=0.265は何ら根拠のないものであり,この値のものが引用例に記載されているとは認められない。
   (3) 本件発明は,顕著な作用効果を奏するものであり,この範囲が臨界的な意義を有するものである。本件明細書(甲2)の発明の詳細な説明における具体的実験例である実施例1では,7個のロータについて試験を行っているが,この試験における式値λと,脈動特性の実測値との関係から,λが0.20以上,0.30以下の範囲で急激に脈動特性の実測値が低下し,これをわずかに外れただけで大幅に脈動が上昇していることが認められる。実施例2,3では,サンプル数が少ないのでこれほど明らかではないが,やはりこのような傾向が認められることから,λの値がこの範囲にある場合において,脈動の低減という顕著な作用効果が認められることは明らかである。以上のことを踏まえ,本件決定の判断手法について検討すると,数値限定発明の認定に当たっては,このような臨界的意義の存否及びそれに伴う作用効果の検討をし,その結果に基づいて新規性及び進歩性を判断すべきであるにもかかわらず,本件決定は,このような判断を行っていない。さらに,一般に内接型オイルポンプロータの脈動特性と騒音との間には,騒音が急激に増加する点(遷移点)があり,この点について,上記実施例1を当てはめると,おおむね0.08kgf/cmとなる。このように本件発明における脈動特性の値は,騒音の低減をもたらすものであり,脈動が騒音に関係することについては,本件明細書の「発明の効果」の項に明記されている。
 2 取消事由2(手続違背)
    上記特許異議の申立てについての審理において,平成13年10月9日付け取消理由通知書(甲4)の理由Kは,引用例のインナーロータ歯形に関する条件として,特許異議申立書に記載されている数値である「λ=0.265」を提示して,本件発明の請求項1に記載されている条件式「λ=0.20〜0.30」の値を満たすものであるから,請求項1に係る発明は引用例に記載された発明であり,請求項1に係る発明の特許は取り消されるべきものであるとしたが,本件決定は,原告が引用例に開示されている発明と本件発明との相違を主張するために,引用例の数値の上限と下限の臨界値から計算して算出した「λ=0.080〜0.682」という値を用いて,「λ=0.20〜0.30」の値が「λ=0.080〜0.682」に包含されることを根拠として,本件発明が引用例に記載された発明と同一であるとした。したがって,本件決定は,取消理由通知書に示されている上記「λ=0.265」ではなく,取消理由通知書の理由Kには記載のない「0.080〜0.682」を理由として,取消決定をしたものであり,その取消しの理由が原告に通知されていないから,特許法120条の4第1項,2項の規定に違反した手続違背があり,違法として取り消されるべきである
第4 被告の反論
   本件決定の認定判断は正当であり,手続違背もないから,原告主張の取消事由はいずれも理由がない。
 1 取消事由1(新規性の判断の誤り)について
   (1) 本件発明は,物の発明であって,条件式R・z/(π・(d1+d2)/2)から見て,複数の変数を相関的に式を用いて規定した要件を含む,特殊パラメータによって物の特定をした発明,いわゆる特殊パラメータ発明に該当する。一般に,新規性判断の対象である発明と同じ特殊パラメータで規定した公知文献は,存在しない。そこで,本件決定においては,まず,引用例記載の発明(以下「引用発明」という。)を認定し,次いで引用発明を具現化した実施例と本件発明を具現化した実施例を対比し,それらが同一か否かを検討し,結果として,本件発明が引用発明を具現化した実施例を包含することを確認し,本件発明と引用発明が同一であると判断したものである。そして,具体的には,本件発明の条件式に引用発明を具現化した実施例の具体的数値を代入する手法によって,上記検討,確認,判断を行ったものである。さらに,物の発明において,本件発明の条件式から得られる具体的な実施例が引用例の実施例と一致している以上,本件発明と引用発明が,その全範囲において一致していなくとも,その一部が一致していれば両者は同一であるという考え方も確立したものである(東京高裁昭和53年(行ケ)第176号・同56年10月20日判決・取消集〔昭和56年〕169頁)。したがって,本件決定が上記手法を用いて新規性の判断を行ったことについて,原告主張の誤りはない。原告は,引用例には本件発明の条件式が開示されていないと主張するが,本件発明の条件式は,物を特定するための特殊パラメータであって,同じ物でも,異なる特殊パラメータや寸法等によって特定することが可能であるから,上記主張は合理性がない。
   (2) 本件決定は,「後者のオイルポンプの諸元である,『前記インナーの歯数が8個,軌跡円径φCと転円径φBの比が0.5〜3.0,離心量eと転円径φBの比が0.35〜0.5,インナー大径がφ56.296±0.03,インナー小径がφ43.784±0.03,離心量eが3.128』という数値を,前者の式R・z/(π・(d1+d2)/2)に代入した計算値は,0.20以上0.30以下のものを含んでいる」(決定謄本3頁第3段落)とし,引用例記載の実施例の構成における具体的数値を本件発明の条件式に代入して得られた計算値が,0.20以上0.30以下の数値を含むものであることを指摘した。そして,その根拠を例示するため,「(実際の計算値としては,例えば,特許異議申立書(注,甲6)においては0.265という値が,特許異議意見書(注,甲5)においては0.080〜0.682という値が,それぞれ示されている。)」(同)とした。ここで,特許異議意見書に記載された0.080〜0.682という数値(甲5の4頁表1)を用いたのは,この数値には本件発明の条件である0.20〜0.30の範囲が当然含まれており,引用発明のうち当該範囲に該当して本件発明と同一であるものが必ず存在することを示すためである。また,本件発明と同一の引用発明の具体的一実施例を示すために,特許異議申立書に記載された0.265という数値を用いたものである。そして,新規性の判断については,本件発明の数値限定の意義に関係なく,引用発明において0.20〜0.30の条件を満たすものがあり,それらは本件発明と同一であるということを示せば十分であって,特許異議意見書や特許異議申立書で示した数値が本件発明の条件式の計算値を含むか否か,また,特許異議申立書で示された数値を用いた根拠は何かは,引用発明と本件発明との同一性の判断には関係がない。
   (3) 原告は,本件発明は0.20以上0.30以下という数値限定の範囲において顕著な作用効果を奏するもので,その数値の臨界的意義及び作用効果の顕著性を判断すべきであるにもかかわらず,本件決定は,このような判断を行っていないと主張する。しかし,内接型オイルポンプの使用において,脈動による振動,騒音が生ずるという課題は,当該技術分野において周知の技術事項である。また,上記のとおり,本件発明と引用発明とが同一の構成であるならば,両者が同様にポンプロータとして使用される限りにおいて,同様の作用効果を奏するものであることは,当業者に自明のことである。そして,上記のとおり,本件発明と引用発明とを対比して,構成及び作用効果が同一のものが一部にでも存在することが明らかであるから,本件発明と引用発明とが同一であることは明白である。なお,原告が主張する本件発明の効果は,特定の歯数の場合において生ずる効果を根拠とするものでしかなく,少なくとも本件明細書の記載の限りでは,数値限定の臨界的意義があるとまではいえない。本件発明は,引用例に記載された公知の発明にすぎず,このような従来公知であって誰もが利用できた発明に対してまで,「数値限定を付加する」ことで,特許権という排他的独占権を設定することは,公共の利益に反するものであって到底認めることはできない。なお,数値限定発明において,原告主張の基準は,進歩性の判断基準として示されているもの(「特許庁編 特許・実用新案審査基準(平成6年12月)」17頁〜18頁「2.8 数値限定を伴った発明の進歩性の考え方」)であって,新規性の判断基準として示されているものではない。その上,引用発明が通常の内接型オイルポンプであって,本件発明の条件式に適合する0.20〜0.30の値を採るものはその一部であることを勘案すれば,0.20〜0.30という数値は当業者が通常任意に選択し得る範囲である。また,脈動による振動,騒音等を低減させるという作用効果については,内接型オイルポンプの実施に際し,当業者が当然に確認を行うものであって,かつ,容易にその確認ができるものである。したがって,本件決定が,原告主張の上記基準についての判断を明示せずに本件発明と引用発明との同一性の判断をしたことに,何ら問題はない。

 2 取消事由2(手続違背)について
    本件決定に原告主張の手続違背はない。
第5 当裁判所の判断
 1 取消事由1(新規性の判断の誤り)について
  (1) 原告は,本件発明は,数値限定発明であるから,数値限定の意義を何ら検討することなく,単に公知発明がその数値限定の値を含んでいるという理由で本件発明が引用発明であるとした本件決定の判断は誤りであると主張する。
      本件決定は,本件発明について,「後者(注,引用発明)のオイルポンプの諸元である,『前記インナーの歯数が8個,軌跡円径φCと転円径φBの比が0.5〜3.0,離心量eと転円径φBの比が0.35〜0.5,インナー大径がφ56.296±0.03,インナー小径がφ43.784±0.03,離心量eが3.128』という数値を,前者(注:本件発明)の式R・z/(π・(d1+d2)/2)に代入した計算値は,0.20以上0.30以下のものを含んでいる(実際の計算値としては,例えば,特許異議申立書においては0.265という値が,特許異議意見書においては0.080〜0.682という値が,それぞれ示されている。)ことから,後者において上記計算値が0.20以上0.30以下のものは,前者の『前記インナーロータの歯数(z:個)と,インナーロータの歯形の創成円の半径(R:mm)と,インナーロータの歯形の歯先円の直径(d1:mm)と,インナーロータの歯形の歯底円の直径(d2:mm)とが下記式0.20≦R・z/(π・(d1+d2)/2)≦0.30を満たす』構成についても,実質的に備えているものと認められる。よって,引用例に記載された発明と本件発明とは,対比しても発明の構成に差異がないものであるから,本件発明は,引用例に記載された発明である」(決定謄本3頁第3段落〜第4段落)と判断した。そして,本件決定が,本件発明の「計算値は,0.20以上0.30以下のものを含んでいる」とした根拠は,引用発明のオイルポンプの諸元である,インナーの歯数が8個,軌跡円径φCと転円径φBの比が0.5〜3.0,離心量eと転円径φBの比が0.35〜0.5,インナー大径がφ56.296±0.03,インナー小径がφ43.784±0.03,離心量eが3.128という数値を,本件発明の式R・z/(π・(d1+d2)/2)に代入すれば,0.080〜0.682という計算値になることを根拠にしたものであること,0.265という値は,引用例に記載されている,軌跡円径φCと転円径φBの比が0.5〜3.0,離心量eと転円径φBの比が0.35〜0.5という数値範囲の中から0.45及び1.5という数値を選択して計算したものであることは,その説示自体から明らかであるが,引用例には,上記数値範囲については記載されているものの,この数値範囲の中から上記数値を含め,具体的数値を採用すべきことについての

記載ないし示唆はない。したがって,引用例には,
     0.080≦R・z/(π・(d1+d2)/2)≦0.682
     を満たすトロコイド歯形をインナーロータの外歯に用いることは開示されているとしても,本件発明の数値範囲である,
     0.20≦R・z/(π・(d1+d2)/2)≦0.30
     を満たすトロコイド歯形をインナーロータの外歯に用いることが開示されているということはできない。
      ところで,数値限定発明である本件発明の新規性の判断に当たっては,数値限定の技術的意義を考慮し,数値限定に臨界的意義が存することにより当該発明が先行発明に比して格別の優れた作用効果を奏するものであるときは,新規性が肯定されるから,このような観点から,本件発明の数値範囲が臨界的意義を有するものであるか否かを検討する必要があるというべきところ,本件決定は,本件発明の数値範囲の臨界的意義を何ら検討していないことが,その記載自体から明らかである。

   (2) 被告は,物の発明において,本件明細書の特許請求の範囲に記載された条件式から得られる具体的な実施例が引用例の実施例と一致している以上,本件発明と引用例がその全範囲において一致していなくとも,その一部が一致していれば両者は同一である,という考え方は確立したものであると主張する。しかしながら,引用例(甲3)において具体的数値が記載されている実施例は1例のみであり,その諸元は,
     「インナー歯数    8個
      インナー大径a   56.296φ±0.03
      インナー小径b   43.784φ±0.03
      アウター大径c   62.826φ(+0.06,−0)
      アウター小径d   50.080φ(+0.06,−0)
      離 心 量 e   3.128」(2頁左下欄)

     である。上記諸元には,本件発明の条件式「R・z/(π・(d1+d2)/2)」のうち,z:インナーロータの歯数,d1:インナーロータの歯先円の直径,及びd2:インナーロータの歯底円の直径,については特定されているが,R:インナーロータの歯形の創成円の半径,に対応する軌跡円径φCの具体的数値は記載されていない。したがって,引用例の実施例に記載された数値を本件発明の条件式に代入するには,軌跡円径φCと離心量eとの関係を,引用例の「離心量eと転円径φBの比を0.35〜0.5とし,軌跡円径φCと転円径φBの比は0.5〜3.0とする」(3頁右下欄(12))との記載から求めて,φC=1〜8.57eとして代入し,その結果が0.080〜0.682となることは前示のとおりである。そうすると,引用例の唯一の実施例は,本件発明の条件式の数値が0.080〜0.682の範囲内のものであるとしか特定することができず,この数値範囲の中から更に特定した数値の実施例は開示されていない。これに対し,本件発明の条件式から得られる具体的な実施例は,条件式の数値が0.20〜0.30の範囲となる実施例であり,引用例の実施例はこの条件式の数値範囲のものとはいえないから,両者が一致することを前提とする被告の主張は失当である。被告引用に係る東京高裁昭和56年10月20日判決・取消集〔昭和56年〕169頁は,当該「本件発明」が当該「引用発明」より広い概念の発明である事案に関するものである上,当該「本件発明」の条件式から得られる具体的な実施例と当該「引用例」の実施例とその一部が一致していることのみを理由としたものではなく,両発明の作用効果に格別の差異がないことをも理由としてその同一性を判断したものであって,事案を異にし,本件に適切ではない。
   (3) また,被告は,新規性の判断については,本件発明の数値限定の意義に関係なく,引用発明において0.20〜0.30の条件を満たすものがあり,それらは本件発明と同一であるということを示せば十分であるのみならず,内接型オイルポンプの使用において,脈動による振動,騒音が生ずるという課題は,周知の技術事項であり,同一の構成であれば同様の作用効果を奏することは自明であるから,本件発明と引用発明に構成及び作用効果が同一のものが一部には存在することになり,両者が同一であることは明白であると主張する。しかしながら,引用例には,本件発明の条件式が0.20〜0.30という数値範囲を満たす具体的数値についての開示がないことは前示のとおりである。本件明細書において,実施例の項中におけるNo.1〜13のロータのうち,実施例であるλが0.20〜0.30の範囲内のものは5個,比較例であるλが0.20〜0.30の範囲外,かつ,0.08〜0.682の範囲内のものは8個であって,実施例の方が比較例よりも脈動特性の実測値が明らかに小さいことが示されている。そうすると,引用例で規定している0.080〜0.682という数値範囲は,本件発明の実施例のみならず比較例もすべて含むものであって,脈動特性を小さくするという課題を解決するために選択された数値範囲と認めることはできない。したがって,本件発明の課題が周知であっても,本件発明と引用発明に構成及び作用効果が同一のものが一部には存在することになり,両者が同一であるとの被告の主張は失当であり,採用することができない。
   (4) さらに,被告は,原告が主張する本件発明の効果は,特定の歯数の場合において生ずる効果を根拠とするものでしかなく,少なくとも本件明細書の記載の限りでは,数値限定の臨界的意義があるとまではいえないと主張するが,本件決定は,本件発明の数値限定の臨界的意義を検討していないことは上記のとおりであるから,被告の主張は本件決定に基づかないものであって,それ自体失当というほかない。

 2 以上のとおり,原告主張の取消事由1は理由があり,この誤りが本件決定の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,その余の点について判断するまでもなく,本件決定は取消しを免れない。
    よって,原告の請求は理由があるから認容することとし,主文のとおり判決する。


     東京高等裁判所第13民事部

         裁判長裁判官     篠  原  勝  美


                   裁判官     岡  本     岳


                   裁判官     早  田  尚  貴