◆H15. 7.30 東京高裁 平成14(行ケ)235 特許権 行政訴訟事件
平成14年(行ケ)第235号 審決取消請求事件
口頭弁論終結の日 平成15年7月16日
判 決
原 告 コネ コーポレイション
同訴訟代理人弁理士 松 永 宣 行
同 弁理士 佐 竹 博
同 弁理士 串 田 幸 一
同 弁理士 香 取 孝 雄
同復代理人 弁理士 鈴 木 大 介
被 告 特許庁長官 今井康夫
同指定代理人 清 田 榮 章
同 西 川 恵 雄
同 高 木 進
同 大 橋 良 三
同 涌 井 幸 一
主 文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 この判決に対する上告及び上告受理の申立てのための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1 請求
特許庁が平成11年審判第9017号事件について平成13年12月17日にした審決を取り消す。
第2 事案の概要
本件は、後記本願発明の出願人である原告が、拒絶査定を受けたので、これを不服として審判請求をしたところ、特許庁が、審判請求不成立の審決をしたことから、同審決の取消しを求めた事案である。
1 争いのない事実
(1) 原告は、平成8年12月9日、フィンランド国への特許出願に基づくパリ条約による優先権(優先日平成7年12月8日)を主張して、発明の名称を「エレベータの動作分析方法および装置」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、特許出願をした(特願平8−342391号、以下「本願」という。)が、平成11年2月23日に拒絶査定を受けたので、同年5月31日、これに対する不服の審判の請求をするとともに、同年6月30日付けの手続補正書を提出した(以下「本件補正」という。)。
特許庁は、同請求を平成11年審判第9017号事件として審理した上、平成13年11月20日、「平成11年6月30日付けの手続補正を却下する。」との補正の却下の決定(以下「本件却下決定」という。)を行い、同年12月17日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決(以下「本件審決」という。)をし、その謄本は、平成14年1月12日、原告に送達された。
(2)ア 本件補正前の本願の請求項1記載の発明(以下「本願発明1」という。)の要旨
エレベータの各構成要素を制御しまたはエレベータ構成要素の動作の結果として表出する信号によってエレベータの動作を継続的にモニタし、所定の動作に関する一連の前記信号を互いに比較することによって、または該信号を基準量と比較することによって動作の分析および該動作の逸脱の検出を行なうエレベータ動作分析・逸脱動作検出方法において、前記信号およびその逸脱の発生頻度を継続的にモニタし、正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに、前記発生頻度に応じて自動的に決定することを特徴とするエレベータの動作分析方法。
イ 本件補正後の本願の請求項1記載の発明の要旨
エレベータの各構成要素を制御しまたはエレベータ構成要素の動作の結果として表出する信号によってエレベータの動作を継続的にモニタし、所定の動作に関する一連の前記信号を互いに比較することによって、または該信号を基準量と比較することによって動作の分析および該動作の逸脱の検出を行なうエレベータ動作分析・逸脱動作検出方法において、前記信号およびその逸脱の発生頻度を継続的にモニタし、該モニタの結果、前記逸脱の発生頻度および性質に鑑みて正常動作に属するとみなされる信号の範囲が変化したと判定される場合は、前記逸脱の発生頻度が減少するよう、正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに自動的に決定し、前記逸脱の発生頻度および性質に鑑みて異常動作と判定される場合は、保守の必要性を表示するメッセージを発することを特徴とするエレベータの動作分析方法。
(3) 本件審決は、別添審決書写し記載のとおり、本願発明の要旨を、本件却下決定に基づいて、本件補正前のものと認定した上、本願発明1は刊行物(甲8、特開平6−321450号公報、以下「引用例」という。)記載の発明(以下「引用発明」という。)及び周知の事項に基づいて、当業者が容易に発明できたものであるから、特許法29条2項の規定により特許を受けることができず、また、本願の願書に最初に添付した明細書又は図面(以下「当初明細書等」という。)は、本願発明を当業者が容易に実施できる程度に記載しているとすることはできないとして、特許法36条4項に規定する要件を満たしていないとしたものである。
2 原告の主張の審決取消事由の要点
本件審決は、誤った本件却下決定を前提として本願発明1の要旨を認定し(取消事由1)、また、仮にその認定に誤りがないとしても、本願発明1が引用発明及び周知の事項に基づいて容易に発明できたものであると判断を誤り(取消事由2)、当初明細書等の記載を看過して、本願発明が容易に実施できる程度に記載されていないと誤って判断した(取消事由3)ものであるから、違法として取り消されるべきである。
(1) 本件却下決定の判断誤り(取消事由1)について
本件補正後の特許請求の範囲に記載された事項のうち、正常動作に属するとみなされる信号の定義の決定を、「該モニタの結果、前記逸脱の性質に鑑みて正常動作に属するとみなされる信号の範囲が変化したと判定される場合」に行うこと(以下「第1の補正事項」という。)、「前記逸脱の発生頻度が減少するよう」行うこと(以下「第2の補正事項」という。)、保守の必要性を表示するメッセージの発出を、「逸脱の性質に鑑みて異常動作と判定される場合」に行うこと(以下「第3の補正事項」という。)は、当初明細書等には記載されておらず、当初明細書等に記載されていた事項から直接的かつ一義的に導き出せるものでもないことは認めるが、当該事項が、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものではないとの本件却下決定の判断は、特許法17条の2第3項の規定に違反して誤りである。
ア まず、本件却下決定は、「当業者が直接的かつ一義的に導き出せるものでない」との判断から、「特許法第17条の2第3項の規定に違反する」との結論に導く際に、何ら理由づけが記載されておらず、この間には論理の飛躍がある。
また、このような本件却下決定の判断は、当初明細書等に記載されていた事項から、当業者が直接的かつ一義的に導き出せるもの以外はすべて、当初明細書等に記載した事項の範囲内から排除する考え方に依拠している。しかし、特許法17条の2第3項には、補正が、当業者が直接的かつ一義的に導き出せるものでなければならないと規定されてはおらず、本件却下決定の考え方は、特許法17条の2第3項の規定に違反する。特許庁の「『特許・実用新案審査基準』の改訂について」(甲13)によれば、「願書に最初に添付した明細書又は図面に記載した事項から当業者が直接的かつ一義的に導き出すことができない事項(以下『新規事項』という)を記載することとなる補正は、(中略)『願書に最初に添付した明細書又は図面に記載した事項』以外の事項を記載したものとなり(中略)第17条の2第3項の規定に違反する」との取扱いは、国際的にも調和したものであると説明されているが、国際的には、「直接的かつ一義的」ではなく、「直接かつ明確に」との運用がなされている。
特許法17条の2第3項の規定の適用の可否を判断する上で、上記審査基準の「直接的かつ一義的」なる基準に従うことは、出願人にとって不必要に過酷な補正制限を課すものであり、誤りである。
イ 具体的に第1及び第3の補正事項についてみると、それらに共通の文言である「逸脱の性質に鑑みて」は、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものである。
(ア)被告が主張するように、逸脱の性質という文言は、逸脱がどの程度正常から逸脱する習性(変化傾向)にあるかという、逸脱の程度を包含するものである。そして、逸脱の程度によって、正当な逸脱と正当でない逸脱という種類が区別されるのであるから、両者は一体不可分の関係がある。逸脱の程度が大きければ正当な逸脱であり、逸脱の程度が小さければ正当でない逸脱と判定することができる。ただし、逸脱の程度は逸脱の性質の一部であり、逸脱の性質とは、逸脱の固有するものであって、故障事象によって動作中断が生ずる場合と、故障事象によってエレベータの動作が中断しない場合、すなわち故障が自己修正的性状のものとを区別するための、あらゆるものをいう。したがって、ある信号のタイミングが正常動作に属するとみなされる信号の範囲を逸脱した場合、逸脱の性質は、タイミングがどれだけずれたかという逸脱の程度だけでなく、遅延する方向に逸脱したのか、早まる方向に逸脱したのか、ということも含む。このような逸脱の性質によって逸脱は2つに種類分けされ、それら「逸脱の発生頻度に鑑みて」本願発明1の動作は決定される。すなわち、2種類の逸脱の発生回数をそれぞれ計数することによって、上述の2通りの判定が可能となる。
(イ)本来、言葉は多義的なものであり、逸脱の性質という言葉も、その文言だけを見れば複数の意味を含んでいる。そして、明細書の中で使用される言葉は、その明細書に記載された事項の範囲内において解釈され、明細書に記載されている事項に鑑みて該当する意味を見出せないとき、はじめてその言葉は理解不能となり、それが補正事項であれば新規事項とされる。
被告が、逸脱の性質について見出したのは、やはり明細書に当初から記載されていた逸脱の程度という意味であった。いいかえれば、被告が想像力をたくましくしても、その想像力は当初から明細書に記載されていた事項の範囲を出ないのである。このことが、逸脱の性質という補正が新規事項でないことを証明している。被告が逸脱の性質の意味を求めようとしたときに、明細書の記載事項の範囲内で決着を付けることができたからである。したがって、被告の主張は失当であり、当該補正は、当初明細書等から当業者が直接的かつ一義的に導き出せる事項ではないものの、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものである。
ウ 第2の補正事項である、「逸脱の発生頻度が減少するよう」行うことも、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものである。
(ア)当初明細書等には、学習という言葉がしばしば用いられ、エレベータが学習を行うことが明確にされている。この学習という言葉自体は、多義的であり、その多義的な言葉から一義的に導き出せる事項などは想定できない。被告の採用する、直接的かつ一義的という審査基準を是認するならば、学習という言葉を根拠として行った補正は、学習という言葉を使ったもの以外は、すべて許容されないことになる。
そして、「逸脱の発生頻度が減少するよう」の意味を明細書に記載された事項の範囲内で解釈しようと考えれば、これが学習という文言に依拠した下位概念であることは、容易に理解できる。したがって、「逸脱の発生頻度が減少するよう」に関する補正は、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものである。
(イ)当初明細書等に記載された「それ相応に理想モデルを修正する」(段落【0024】)とは、本願発明1の、「正常動作とみなされる信号の定義を各エレベータごとに自動的に決定」することであるが、このような学習が「逸脱の発生頻度が減少するよう」行われることは当然であり、逸脱の発生頻度が増加するように学習を行うことは、通常考えられない。
また、当初明細書等には、逸脱回数が所定の限度に達すると、保守の必要性を表示するメッセージを表示すると記載されており、逸脱というのは望ましくない状況であることが明らかであるから、逸脱を減少させるべきであるのは理の当然である。
(2) 特許法29条2項の判断誤り(取消事由2)について
本件審決は、誤った本件却下決定を前提としたものであり、本来、本願発明1の要旨は、本件補正後の特許請求の範囲によって認定すべきであるが、本件補正前の特許請求の範囲のとおりに本願発明1を認定したとしても、本件審決の導いた結論は誤りである。
ア 相違点の看過
本願発明1では、「正常動作に属するとみなされる信号の定義を〜決定する」ことのみを行う。これは、「動作の逸脱の検出」を行い、「その逸脱の発生頻度を継続的にモニタ」した結果行われるものである。一方、引用発明では、保守が行われたことを条件に、再び基準範囲初期値の設定が行われるから、保守と基準範囲の設定とは必ずセットで行われる。そうすると、本願発明1では、保守必要性メッセージの発生と正常動作の範囲の変更とは独立した関係にあり、その結果、保守の回数を減少させるという効果を奏するのに対して、引用発明では、両者の間には依存関係があり本願発明1のような効果を有しない点で相違する。
本件審決は、この相違点を看過したものである。
イ 相違点1の判断の誤り
本件審決は、本願発明1と引用発明との相違点1の判断において、本件審決において初めて引用した刊行物(特開昭52−152051号公報、特開昭58−26784号公報及び特開昭62−36285号公報、以下総称して「追加刊行物」という。)の記載に基づいて、「逸脱信号の頻度によって正常、異常を判断することは、エレベータ制御の技術分野で、本願の優先権主張の日前において周知の事項である」と認定している。
しかし、本件審決がなされる以前に一切引用されていなかった追加刊行物を引用して本願発明1を拒絶するのは、原告に追加刊行物に対する反論の機会を与えないこととなり、不当である。
また、追加刊行物3件のみをもって、これらの追加刊行物に記載の技術が周知技術であるとは認められない。
ウ 従属請求項の審理不尽
本願の特許請求の範囲の請求項6及び7には、本願発明1の「正常動作に属するとみなされる信号の定義を〜決定する」に対応する「エラーメッセージ」とは独立に、「保守の必要性を表示するメッセージを発する」ことが記載されている。したがって、本件審決前に、例えば請求項1を削除する機会を原告に与えれば、少なくとも正常信号の定義の決定と保守とを別々に独立して行うことを明記している本願の請求項6及び7に係る発明は、救済可能なものであった。それにもかかわらず、本件審決では、他の請求項の特許性は一顧だにせず、本願発明1の特許性のみを論じ、本願全体を出願拒絶している。
したがって、本願発明に特許され得る部分があったことを看過してなされた本件審決は、違法である。
(2) 特許法36条4項の認定誤り(取消事由3)について
本件審決は、平成11年2月4日付け手続補正後の本願の明細書(甲3、6、以下「本願明細書」という。)の発明の詳細な説明に記載されている本願発明の具体的なプロセス及び手段に関する記載を看過し、その結果、本願明細書において本願発明が当業者が容易に実施できる程度に記載されていない旨誤って判断したものである。
ア 正常動作に属するとみなされる信号の定義の決定
本件審決は、「正常動作に属するとみなされる判断基準がどのようなものであって、逸脱の発生頻度と信号の定義の決定とがどのように関連付けられているのかを説明する記載はまったくなく」(甲1第7頁24〜26行)と判断するが、誤りである。
すなわち、本願明細書には、「例えば、ある信号がその正常値に対応しないが依然として制御に従って機能していれば、状況は正常動作の範疇に属するとみなされる」(段落【0023】)と記載されており、これは、値そのものは正常動作に属さないが、例えば増減いずれかに変化せよという制御には依然として従っている信号を意味し、このような信号が正常動作に属するとみなされる。一方、上述の記載を反対解釈すれば明らかなように、値そのものが正常動作に属さず、制御にも従っていない信号は、異常動作に属するとみなされる。
また、本願明細書には、逸脱回数が所定の限度に達すると、保守の必要性を表示するメッセージを表示するとの記載がある(段落【0026】)ところ、上記記載は、厳密には上記信号の定義の決定に関する内容ではないが、「逸脱の発生頻度と信号の定義の決定とがどのように関連付けられているのかを説明する記載」に該当する。けだし、逸脱が好ましくない現象であり、減らすべき現象であることに鑑みれば、逸脱した信号が所定の回数発生した場合に、正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することは、容易に理解できるからである。
イ 定義を自動的に決定すること
本件審決は、「定義を自動的に決定する点についても、その手順がどのように構成されているのかが不明である」(甲1第7頁27〜29行)と判断するが、誤りである。
すなわち、本願発明1の重点は、「正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに、前記発生頻度に応じて」決定することであり、定義を自動的に決定する点は、いわば当然の特徴にすぎない。そして、本願発明1の動作が明確に示されている以上、いかにして自動化するかということは、当業者にとって自由に決定し得る設計事項であり、あえて記載しなくとも本願発明1が実施不可能ということにはならない。
3 被告の反論の要点
本件審決の認定・判断は正当であり、原告主張の取消事由はいずれも理由がない。
(1) 取消事由1について
ア 本件却下決定においては、先ず、各補正事項が当初明細書等に記載した事項自体であるか否かを検討し、次いで、各補正事項が当初明細書等に記載した事項自体でないことを前提として、各補正事項が当初明細書等に記載した事項の範囲内といえるか否かをより客観的に判断するために、単に記載の可能性でなく疑念なく記載されていた事項といえるか否かを「直接的かつ一義的に導き出せる事項」か否かの観点で検討したものである。その結果、各補正事項が原告主張のような限定した意味にのみ解釈できるとすれば、「直接的かつ一義的に導き出せる事項」といえる可能性があるが、同時に、各補正事項は、上記限定した意味以外の解釈が成り立つので、それを「直接的かつ一義的に導き出せる事項」ではないとし、特許法17条の2第3項に違反すると判断したのであって、この点に違法性はない。
特に、本件のように、補正事項が特許請求の範囲に記載された事項である場合、該補正事項のみを原告主張のような限定した意味に解釈しなければならない特段の事情はないから、該補正事項は、当初明細書等に記載した事項から当業者が「直接的かつ一義的に導き出せる事項」以外のもの、すなわち、当初明細書等に記載した事項の範囲内以外のものも包含することとなり、特許法17条の2第3項の規定に違反することは明らかである。
イ 「逸脱の性質に鑑みて」について
(ア) 原告は、「逸脱の性質」という文言の表現するものが、(@)正当な逸脱と、(A)正当でない逸脱(逸脱が固有するもの)とを区別するものであり、正当でない逸脱が、「自己修正的性状」や「正常に対応しないが依然として制御に従った機能」などを意味するものであると主張する。
しかし、このような主張は、本訴において初めて与えられた定義であって、当初明細書等には何ら記載されていないばかりでなく、原告の主張を参酌しても、逸脱が正当であることや、正当でないことが何を意味するのか不明であり、また、逸脱が固有するものとは一体いかなる意味であるのか、全く不明である。
また、当初明細書等の記載からみて、「逸脱の性質」という文言は、上記原告主張の意味のほかに、逸脱がどの程度正常から逸脱する習性(変化傾向)にあるかという、逸脱の程度というものを意味すると解することもできる。このように幾通りもの解釈を可能とする多義的な事項は、当初明細書等から直接的かつ一義的に導き出せるものではなく、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものでないことは明らかである。
(イ)「逸脱の性質に鑑みて」という補正事項が、当初明細書等に記載した事項の範囲内のものではないとしたことは、「逸脱の性質」という用語自体の意味・内容が不明であることに起因している。
原告の主張は、当初明細書等に記載した事項に基づかない主張であって、「逸脱の性質」という用語自体の意味・内容を何ら明確にするものではない。また、「逸脱の性質」という用語自体は、当初明細書等に記載されていないから、「逸脱の性質に鑑みて」という補正事項は、当初明細書等に記載した事項の範囲内のものではないことは明らかである。
ウ 「逸脱の発生頻度が減少するよう」について
本願発明1の発明の要旨には、「学習」という文言は存在しないから、「学習」を行わないエレベータをも含むことが明らかであって、逸脱の発生頻度をどのようにするかは、設計上の選択事項であり、必ずしも減少するように行われるものとは限らない。
そうすると、正常動作に属するとみなされる信号の定義の決定を、「逸脱の発生頻度が減少するよう」行うという補正事項は、当初明細書等に記載された事項以外の事項を含むものとなる。また、エレベータが学習を行うものであるとしても、学習が逸脱の発生頻度を減少させるように行うものとは、当初明細書等に記載されていない。
(2) 取消事由2について
ア 相違点の看過について
(ア)「保守必要性メッセージの発生」は、本願の請求項6及び7に係る発明の特定事項であり、本件審決における特許法29条2項違反の対象である本願発明1の特定事項ではないから、原告の主張は、請求項1の記載に基づかない主張である。
(イ)本願明細書には、保守要求の通知が発せられて「保守」が行われた時に、正常動作に属するとみなされる信号の定義がどのようになるのかについては、何ら記載されていない。また、「保守」が行われなかった時に、正常動作に属するとみなされる信号の定義がどのようになるかについても記載されていない。いずれにしろ、逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することが、「保守」とどのように関連するのか、あるいは、関連しないのかは、明細書の記載からは不明である。
したがって、逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することは、本願発明1の認定に際し、「保守」との関連性又は無関連性に言及することなく解釈されるべきである。それゆえ、本願発明1の逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することが、「保守」との関連性を有するものまでも含有することは明らかである。
しかも、本願発明1の逸脱の発生頻度に応じて自動的に決定するという方法の発明における事項は、逸脱の発生頻度に応じてという事項と、正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定するという事項の間に、保守を行うという経時的な方法を排除するものではない。
以上のとおり、本願発明1は、引用発明の「保守」に関する事項を包含し、排除するものではない。
イ 相違点1の判断の誤りについて
追加刊行物は、当業者にとって周知の事項(周知技術)の一例として引用されたものであり、新たな拒絶理由としたものではない。
周知技術は、本願の優先権の優先日における技術水準を示すものであり、追加刊行物は周知技術を明確にするための単なる例示にすぎない。そして、追加刊行物には、エレベータ制御の技術分野において、発生した逸脱が単発的・偶発的な誤動作のようなものでなく、反復性のある逸脱であることを確認して、初めて、逸脱の発生と判断すること、すなわち、逸脱信号の頻度によって正常、異常を判断することが記載されている。
ウ 従属請求項の審理不尽について
特許法49条2号の規定によれば、「その特許出願に係る発明が第29条の規定により特許をすることができないものであるとき」、審査官は、その特許出願について拒絶をすべき旨の査定をしなければならないのであるから、特許出願に係る発明のうち1つにでも、特許法29条2項の規定により特許をすることができない発明があるときは、その特許出願は拒絶の査定がなされることを意味する。
したがって、原告の主張は、特許法の条文に基づかない根拠のないものである。
(3) 取消事由3について
本願明細書の段落【0020】〜【0022】に記載されることを、図3、図4の記載と併せて解釈しても、「逸脱の動作を検出する」ことも、「逸脱の発生頻度を継続的にモニタする」ことも、「正常動作に属するとみなされる信号の定義」も、説明されていない。すなわち、上記箇所には、エレベータの動作に従って、各信号72、74、76がどのように発せられ、また、経時的にどのように変化(ON−OFF)するか、ということや、各信号72、74、76等について、エレベータの動作のタイムチャートに関することが記載されているだけである。
そして、「正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定する」ことは、本願発明1の最も重要な特徴点であって、決して設計的事項といい得るようなものではない。本願明細書の発明の詳細な説明に、発明の最も重要な特徴点である事項をあえて具体的に記載しないことは、発明の詳細な説明には当業者が当該発明の実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載しなければならないとした特許法36条4項の規定に違反するものである。
第3 当裁判所の判断
1 本件却下決定の判断誤り(取消事由1)について
(1) 当初明細書等(甲3)には次の記載がある。
【発明が解決しようとする課題】…エレベータをモニタし、事象に関する統計情報を収集するために、エレベータ制御信号や調整装置の状態を示す信号を継続的にモニタし、これらの信号のどのような変化も登録する。エレベータの個々の特性が様々であるため、モニタ装置はこの点に関して個々に調整する必要がある。この多様性によってまた、信号を測定する接続点も様々になる。誤動作もしくは事象を他の信号の組合せから、または信号の発生順から推論する必要がある。正常動作と誤動作との相違は非常に小さいこともあり、必ずしも装置の動作を外部から監視することで発見するとはかぎらない。さらに、パラメータの値に経時的に徐々に変化が生じ、保守に関連して再調整が必要になる。その結果、誤った故障メッセージが生成し、保守要員の不必要な派遣、もしくは事象の統計に誤った情報をもたらすことになる。最悪の場合、欠陥がすべて見落とされてしまう。
【問題を解決するための手段】これを実現するため、本発明の方法は、前記信号およびその逸脱の発生頻度を継続的にモニタし、正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに自動的に決定することを特徴とする。
本発明の方法の実施例によれば、信号タイミングの正常な範囲は自動的に決定されて、正常なタイミング範囲から逸脱すると、エラーメッセージが生ずる。他の実施例によれば、本方法は、正常動作により生じる事象をモニタすることを含み、モニタの結果、正常動作に属する信号の定義を自動的に変更する。
さらに他の実施例によれば、エレベータごとに、動作の発生時点に関する少なくとも1つの信号のタイミングをモニタし、これに基づいて正常なタイミング範囲を画成して、正常なタイミングから何らかの逸脱があると、エラーメッセージを生じる。
望ましくは、正常動作に属する信号はエレベータの起動に関連して自動的に画成される。
さらに、本発明の方法の他の特徴によれば、正常動作から逸脱した事象をモニタし、逸脱回数が所定の限界に達すると、保守の必要性を示すメッセージが発生する。本方法のさらに他の特徴によれば、正常動作から逸脱した事象をモニタし、逸脱回数が誤動作と正常動作との間の関係に基づいて決まる限界に達すると、保守の必要性を示すメッセージが発生する。
本発明の装置は、前記信号およびその逸脱の発生頻度を継続的にモニタさせ、正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに自動的に決定させる手段を含むことを特徴とする。
好ましい実施例によれば、本装置は記憶装置を有し、これに、正常動作に属するとみなされる信号の定義を記憶することができ、記憶装置に記憶された情報を変更することができる。
他の好ましい実施例によれば、本装置は、1つの信号を、正常と考えられる信号と比較する手段と、信号が正常な範囲から逸脱すると、エラーメッセージを発信する手段と、正常動作からの逸脱事象の数を計数する手段と、逸脱事象の数が所定の限度に達すると、保守の必要性を示すメッセージを発信する手段とを含む。
【発明の実施の形態】…分析装置10はそのエレベータシステム内のカー装置4および制御装置14や、他の機器によって送信された信号を処理し、それらからメッセージを発生する。その方法については、図2を参照して以下に説明する。分析装置は、それらの信号から、エレベータ動作における事象が正常であるか否かを推論し、その場合は、事象を統計に記録するだけである。または、事象が正常から逸脱しているか否かを推論し、その場合は、事象を登録する。または、事象が警報呼出しを必要とする性状のものであるか否かを推論し、その場合は、直ちにサービスセンタに警報する。
分析装置10の入力コネクタ26で受信した信号はモニタブロック28へ送られ、モニタブロックは、それらの信号から、エレベータの事象として分類されるエレベータ機器の正常動作の状況であるか、または故障として分類される1つまたはそれ以上の機器の誤動作の状況であるかを推論する。エレベータ事象を示すデータは保守要求ブロック30へ送られ、保守要求ブロックではデータを収集して、例えば週、月もしくは年ごとのエレベータ事象の数に関する統計を保持する。動作が誤りであると判断すると、信号(矢印29)を警報ブロック32、動作中断ブロック34および保守要求ブロック30へ送る。警報ブロック32はそのエレベータに試験を行なって、その警報が正当であるかを判定し、基本装置20に対して警報呼出しを行なうように指示する。故障メッセージで警報を発生しない場合、警報ブロックはメッセージ40を保守要求ブロック30へ送る。故障事象によって動作中断が生ずると、動作中断ブロック34は故障メッセージ、すなわちその故障についての報告38を送信する。故障の事象によってエレベータの動作が中断しない場合、すなわち故障が自己修正的性状のものである場合は、メッセージが保守要求ブロック30へ送られる。保守要求ブロック30は、エレベータ事象および故障事象に関する情報を収集し、保守要求報告をその出力43に出力する。エレベータの正常動作に属するトラヒック事象は、バス44を介して保守要求ブロック30へ送られ、保守要求ブロックはまた、それらの発生数および頻度もモニタしている。
…分析すべきそれぞれの動作ごとに、分析装置は、エレベータの動作を登録し誤動作を検出する信号が動作の中断を必要とする性状のものであるか、もしくは異常動作の場合として記録するだけの誤りであるかに関わりなく、それらの信号を受信する必要がある。
…エレベータの学習操作中、分析装置は、当該エレベータに用いられ様々な階で用いられることのあるドアの組合せに関して学習し、もしくは情報を受ける。通常のトラヒックでは、その安全回路入力をモニタすることによって、分析装置は、事前に学習した事項に基づいて、エレベータが正しく機能しているかを判断し、いかなる故障もしくは警報状態をも登録することができる。信号測定点は、様々なエレベータに応じて異なってもよいので、分析装置はまた、正常より若干逸脱した各信号もしくは信号タイミングを正しく解釈することができる。学習動作中、すなわち換言すれば正常動作中、分析装置は、そのプログラムに従ってどの機能が正しいかを判定する。例えば、ある信号がその正常値に対応しないが依然として制御に従って機能していれば、状況は正常動作の範疇に属するとみなされる。しかし、何らかの誤動作が信号と同時に、もしくはその直後に発生すれば、その不正な信号は、たとえそれがエレベータの正常な動作の妨害をしなくても、登録される。
エレベータの動作中、信号を継続的にモニタし、それらの信号に発生するいかなる変化も、図2に関連して説明したように、登録する。理想的もしくは理論的モデルからの信号値の逸脱は許容される。分析装置は、機能が正しいか、または故障を登録することになるか、もしくは警報を必要とするといった範囲内の不正確さの限度値を定めている。各事象をモニタすることによって分析装置は、どんな種類の動作が当該エレベータの習性であるかに関して結論を出し、それ相応に理想モデルを修正する。
信号の発生およびタイミングエラーをモニタすることの外に、必要な信号の有無を見失わないようにすることが大切である。とくに学習動作中、乗客の安全にとって大切な機能に関係がある状況では、各信号の有無をチェックする。装置が正常に接続され動作中であっても、必要な信号が存在しなければ、直ちに警報が設置要員もしくは保守要員へ発信される。同様に、正常動作中に信号が何らかの理由で消失すれば、故障メッセージが発信される。
分析装置にプログラムされているデータに基づいて故障メッセージもしくは警報を要求する性状の信号を分析装置が受信すると、分析装置はエレベータに対して制御コマンドを発信し、エレベータは、その故障の発生に関係した機能を実行しなければならなくなる。エレベータがその制御に応答して、対応する方法で動作すると、その故障は分析装置の記憶装置に登録され、記憶されるだけである。故障事象の数を経時的にモニタし、故障の頻度が増加すると、もしくは故障数が所定の限度を超えると、保守要員に通知する。例えば、2000件の正常動作に対して、警報を必要としない誤動作は5件が許容可能である。正常動作と誤動作の比がこの限度を超えると、保守要求の通知が発せられる。または、頻度がかなり増加すると、故障メッセージを発生することもある。
【発明の効果】本発明を適用した分析装置は、エレベータの正常動作を個々に学習し、正常なエレベータ動作のモデルを作る。この分析装置により学習し記憶されたデータは、エレベータの使用中に収集されたデータと比較され、逸脱があると、そのデータを調整して新しい状況に一致させるか、もしくは故障警報を発することになる。分析装置によって得られた状況情報を用いて、エレベータが良好な動作状態にあるか否かを確認し、または誤動作もしくは故障事象の原因を探る。
本発明の解決策によれば、エレベータの故障事象と正常動作に属する事象との間の信頼性のある区別を行なうことができる。さらに、警報信号をサービスセンタへもしくは保守責任者へ確実かつ迅速に送ることができる。例えば故障による偽りの警報は、エレベータの運転を中止することなく、もしくは保守要員の不要な派遣をすることなく、排除することができる。本発明を適用した分析装置によって、モニタ動作を自動調整して特定のエレベータに合わせるようにする。したがって、各エレベータの装備レベルまたは動作モードによって故障事象のモニタ動作もしくは事象統計の正確さが影響を受けることはない。
本発明は、その自己学習特性のため、個別エレベータから数台のエレベータを含むエレベータ群まで、様々なエレベータ装置に適用することができる。本発明はまた、エレベータを近代化する際、もしくは旧式エレベータに新しい特性を加える際にも適用することができる。
(2) 上記の記載及び当初明細書等の各図によれば、次の事項が認められる。
従来のエレベータ分析装置は、信号の正常値範囲を予め設定しておき、信号が正常値範囲から外れると警報を発する等の措置を講じていたが、経時的にエレベータの特性が変化したり、また、数台のエレベータを対象とする場合には個々のエレベータ毎に特性が異なることなどから、偽警報を発生し、不必要な保守要員の派遣や誤った統計情報をもたらすなどの事態が生じていた。そこで、本願発明は、信号が個々のエレベータ毎に設定した正常値範囲から外れた場合には、モニタブロックにより、エレベータ動作における事象が正常から逸脱をしたか否かを推論し、逸脱していなければ正常な動作と判断し、警報を発生することなく、正常動作の事象の発生数及び頻度をモニタする。また、必要に応じて正常値範囲を変更する。そして、上記事象が正常から逸脱していれば、直ちに警報を発するのではなく、@エレベータに試験を行なって、警報が必要である場合には警報呼出しを行うが、必要ない場合には、単に故障事象を登録する、A動作中断が生ずると保守要求するが、動作が中断しない場合、すなわち、故障が自己修正的性状のものである場合は、同じく故障事象を登録し、登録故障事象が一定の回数・頻度になったときに保守要求するものである。この結果、本願発明1では、個々のエレベータ毎の特性の差異、経時的な特性変化に対応した正常値範囲の設定ができ、不必要な警報の発生等を防止するという作用効果を有する。
したがって、本願発明1におけるエレベータの制御動作は、正常動作と誤動作に大別されるが、正常とみなされる動作には、信号の正常値範囲内のものとこれを逸脱したものの両者が含まれ、誤動作には、警報が正当に必要であるもの、動作中断が生ずるもの、警報を発生せず、エレベータの動作も中断しないで、単に登録されていくものに区分される。ただし、エレベータの動作が正常であるか正常から逸脱した誤動作であるかの判断手法、正常と判断される動作の内で信号の正常値範囲内のものとこれを逸脱したものの区分方法、信号の正常値範囲をどのような場合にどのようにして変更するかについては、開示するところがない。
(3) 以上の認定事実に基づいて、まず、第3の補正事項について判断する。
本件却下決定が新規事項に該当するとした第3の補正事項は、保守の必要性を表示するメッセージの発出を、「逸脱の性質に鑑みて異常動作と判定される場合」に行うことである。
そこで、上記逸脱の性質に鑑みて異常動作と判定することが当初明細書等に記載されていたか否かを検討する。
「逸脱の性質」という用語自体は、当初明細書等に記載されていないばかりでなく、「異常動作」という用語に関しても、当初明細書等おいては、前記のとおり、「分析すべきそれぞれの動作ごとに、分析装置は、エレベータの動作を登録し誤動作を検出する信号が動作の中断を必要とする性状のものであるか、もしくは異常動作の場合として記録するだけの誤りであるかに関わりなく、それらの信号を受信する必要がある。」と記載されているのみである。ここにいう「異常動作」とは、警報を発生せず、エレベータの動作を中断しないで記録されていくだけの誤動作を意味していることは明らかである(なお、その他の誤動作には、前記のとおり、警報が正当に必要であるもの、動作中断が生ずるものがある。)。また、前記のとおり、当初明細書等には、「例えば、2000件の正常動作に対して、警報を必要としない誤動作は5件が許容可能である。正常動作と誤動作の比がこの限度を超えると、保守要求の通知が発せられる。」と記載されているから、異常動作である誤動作がどのようなものであれ、1回生じただけでは保守要求はなされず、正常動作との比が所定の限度を超えたときにはじめて保守要求されることしか開示されていない。
そうすると、当初明細書等において、保守の必要性を表示するメッセージを発するのは、異常動作である誤動作が記録されて所定の回数に達したときであるから、第3の補正事項である、「逸脱の性質に鑑みて異常動作と判定される場合」に保守の必要性を表示するメッセージを発することは、当初明細書等に記載されていなかったことである。
したがって、第3の補正事項は、新規事項を追加するものであるといわなければならない。
(4) 原告は、逸脱の性質が、逸脱の固有するものであって、逸脱の程度を含むものであるところ、逸脱の程度により、すなわち、故障事象によって動作中断が生ずるものと、故障事象によってエレベータの動作が中断しない場合、すなわち故障が自己修正的性状のものとを区別することができるから、第1及び第3の補正事項は、当初明細書等に記載された事項の範囲内のものであると主張する。
この主張は、必ずしも明らかとはいえないが、少なくとも第3の補正事項については、逸脱の性質に鑑みて異常動作と判定される場合に、保守の必要性を表示するメッセージを発することが記載されているのであって、逸脱の性質に鑑みて故障事象により動作中断を生ずるものと動作が中断しないものとを区別することが記載されているのではないから、原告の主張は、それ自体失当なものといわなければならない。
以上のとおり、第3の補正事項が当初明細書等に記載された事項の範囲内のものでなく、新規事項を追加するものである以上、特許庁の審査基準に基づく運用が誤りであるとする原告の主張及びその他の補正事項について検討するまでもなく、取消事由1には理由がない。
2 特許法36条4項の認定誤り(取消事由3)について
(1) 本願明細書(甲3、6)によれば、本願発明は、前記認定に加えて、信号の逸脱の発生頻度に応じて正常値の範囲を決定するものとされるが、前記認定のとおり、本願明細書には、エレベータの動作が正常であるか正常から逸脱した誤動作であるかをどのように判断するか、正常と判断される動作の内で信号の正常値範囲内のものとこれを逸脱したものをどのように区分して計数し記憶するか、その正常値を逸脱した信号の発生頻度に応じて信号の正常値範囲をどのようにして変更するかについては、いずれも開示するところがない。
したがって、本願明細書において、信号及びその逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することに関しては、当業者が容易に実施し得るように記載されていると認めることはできない。
(2) 原告は、本願明細書の段落【0023】には、値そのものは正常動作に属さないが、例えば増減いずれかに変化せよという制御には依然として従っている信号が正常動作に属するとみなされると記載されており、これを反対解釈すれば、値そのものが正常動作に属さず、制御にも従っていない信号は、異常動作に属するとみなされることが開示されていると主張する。
しかし、上記明細書における当該段落の記載は、前記のとおり、「学習動作中、すなわち換言すれば正常動作中」に関するものと明記されており、動作が正常か否かを決定する判断基準を示したものでないことは明らかである上、「依然として制御に従って機能」するとは、極めて抽象的な記載であって、どのような状態に制御されていれば正常動作の範疇に該当するのか不明であるから、結局、本願明細書には、正常動作に属するとみなされる判断基準が明確に記載されているとはいえず、原告の上記主張は採用できない。
(3) また、原告は、本願明細書には、逸脱回数が所定の限度に達すると、保守の必要性を表示するメッセージを表示するとの記載があり(段落【0026】)、これが逸脱の発生頻度と信号の定義の決定とがどのように関連づけられているのかを説明する記載に該当し、逸脱が好ましくなく減らすべき現象であることに鑑みれば、逸脱した信号が所定の回数発生した場合に、正常動作に属するとみなされる信号の定義を自動的に決定することは、容易に理解できると主張する。
しかし、原告の指摘する本願明細書の記載は、「故障事象の数を経時的にモニタし、故障の頻度が増加すると、もしくは故障数が所定の限度を超えると、保守要員に通知する。例えば、2000件の正常動作に対して、警報を必要としない誤動作は5件が許容可能である。正常動作と誤動作の比がこの限度を超えると、保守要求の通知が発せられる。」であるが、この指摘箇所には、警報を必要としない誤動作が所定頻度を超えた場合には保守を行うことが記載されているのみで、そもそも正常動作を対象とする記載ではなく、正常動作に属するとみなされる信号の定義の決定とは全く関連がないから、原告の上記主張は明らかに失当である。
しかも、信号及びその逸脱の発生頻度と正常動作に属するとみなされる信号の範囲の決定との関連について、本願明細書に記載されているのは、「前記信号およびその逸脱の発生頻度を継続的にモニタし、その発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに自動的に決定」するという、特許請求の範囲の記載と同語反復の記載のみである。その他関連すると思われる「各事象をモニタすることによって分析装置は、どんな種類の動作が当該エレベータの習性であるかに関して結論を出し、それ相応に理想モデルを修正する」との記載は、どのような場合にどのようにして結論を出すのか全く不明である。また、「分析装置により学習し記憶されたデータは、エレベータの使用中に収集されたデータと比較され、逸脱があると、そのデータを調整して新しい状況に一致させるか、もしくは故障警報を発することになる。」との記載は、1件だけの逸脱でデータ調整をすると解されるから、信号の逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属する信号の定義を決定する本願発明とは整合しない内容である上、逸脱があった場合に、データ調整と故障警報とをどのように区分するのかも不明である。
したがって、信号及びその逸脱の発生頻度と正常動作に属するとみなされる信号の範囲の決定手法については、本願明細書に具体的な記載がない。
(4) さらに、原告は、本願発明1の重点は、「正常動作に属するとみなされる信号の定義を各エレベータごとに、前記発生頻度に応じて」決定することであり、定義を自動的に決定する点は、いわば当然の特徴にすぎず、本願発明1の動作が明確に示されている以上、いかにして自動化するかということは、当業者にとって自由に決定し得る設計事項であり、あえて記載しなくとも本願発明1が実施不可能ということにはならないと主張する。
しかし、前示のとおり、本願明細書において、正常動作として分類される事象については、信号が「正常動作に属するとみなされる範囲」を逸脱したか否かを区別することなく、すべて正常動作として収集されているのであるから、信号の正常値範囲からの逸脱事象の数が所定の限度に達したことを検知することは不可能であり、したがって、信号の逸脱の発生頻度に応じて正常動作に属するとみなされる信号の定義を決定することも困難であり、当業者が本願明細書に従って本願発明1を容易に実施することはできないというべきである。
本来、正常動作に属するとみなされる信号の定義を、信号及びその逸脱の発生頻度に応じて自動的に決定するためには、信号が正常動作に属するとみなされる範囲を逸脱したときに、正常動作の範疇に属するか否かを判断し、正常動作の範疇に属するものであれば、その事象を、信号が正常動作に属するとみなされる範囲の事象と区別して、信号値とともに記憶・計数し、その数が所定限度になったときに、逸脱した信号値を参照して、信号が正常動作に属するとみなされる範囲を決定すべきものと認められるが、このようなことは、本願明細書に全く開示されていない。
したがって、本願発明が容易に実施可能とする原告の上記主張も採用する余地はない。
(5) そうすると、取消事由2について判断するまでもなく、本願発明は、特許法36条4項の規定により特許を受けることができないものとなるから、これと同旨の本件審決に誤りはなく、その他本件審決にこれを取り消すべき瑕疵は見当たらない。
3 結論
よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第3民事部
裁判長裁判官 北 山 元 章
裁判官 清 水 節
裁判官 沖 中 康 人