◆H16. 4.20 東京高裁 平成14(行ケ)393 特許権 行政訴訟事件
平成14年(行ケ)第393号 審決取消請求事件
平成16年2月26日口頭弁論終結
判 決
原 告 三共株式会社
原 告 宇部興産株式会社
原告ら訴訟代理人弁護士
品 川 澄 雄
同 吉 澤 敬 夫
同 牧 野 知 彦
原告ら訴訟代理人弁理士 津 國 肇
同 伊 藤 温
被 告 特許庁長官 今井康夫
指定代理人 後 藤 圭 次
同 板 橋 一 隆
同 涌 井 幸 一
同 一 色 由美子
主 文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は,原告らの負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告ら
特許庁が平成11年審判第39101号事件について平成14年6月20日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告
主文と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
原告らは,発明の名称を「8−メトキシキノロンカルボン酸誘導体の製造中間体」とする特許第2698339号の特許(昭和62年3月30日にした特許出願(特願昭62−76892号。以下「原出願」という。)の一部を平成2年6月12日に新たな特許出願とし(特願平2−153306号),さらに,その一部を平成6年3月28日に新たな特許出願とし(特願平6−56950号),さらに,その一部を平成8年7月12日に新たな特許出願とし(特願平8−182903号),平成9年9月19日に設定登録された。以下「本件特許」という。発明の数は1である。)の特許権者である。
本件特許について異議申立てがなされ,特許庁は,これを平成10年異議第73411号事件として審理し,その結果,平成11年6月14日,「特許第1928400号発明の特許を無効とする。」との審決をした。原告らは,同年6月14日,同審決の取消しを請求する訴訟を提起した(当庁平成11年(行ケ)第169号)。
原告らは,平成11年12月7日,特許庁に対し,本件特許に係る出願の願書に添付した明細書(以下,願書添付の図面も併せて「訂正前明細書」という。)を訂正することについて審判を請求した(以下,上記訂正を「本件訂正」といい,本件訂正に係る明細書を上記図面と併せて「訂正明細書」という。)。特許庁は,これを平成11年審判第39101号事件として審理し,その結果,平成14年6月20日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,同年7月2日にその謄本を原告らに送達した。
2 本件訂正の内容
(1) 特許請求の範囲の訂正
ア 本件訂正前
「【請求項1】一般式(XXXII)
(XXXII)
(式中、Qはシアノ基またはカルボキシ基を表わす)
で示される化合物。」
(以下,この発明を「訂正前発明」という。)
イ 本件訂正後
「【請求項1】一般式(XXXII)
(XXXII)
(式中、Qはカルボキシ基を表わす)
で示される化合物。」
(以下,この発明を「訂正発明」という。)
(2) 発明の詳細な説明の訂正
@ 段落番号【0006】中の「(式中,Qはシアノ基またはカルボキシ基を表す)」を,
「(式中,Qはカルボキシ基を表す)」に訂正する。
A 段落番号【0011】の記載を,「化合物(XXXII)におけるQはカルボキシ基を示す。化合物(XXXII)は,反応経路F’における化合物(XXXIId)と同一化合物である。」に訂正する。
3 審決の理由
別紙審決書の写しのとおりである。要するに,訂正発明は,その出願日とみなされる原出願の日より前の出願であって,その出願(訂正発明の出願)後に出願公開された特願昭61−220149号の願書に最初に添付した明細書(以下「先願明細書」という。特開昭62−252772号公報(甲第4号証)は,その内容を示す出願公開公報である。)中に参考例1として記載された発明(以下「先願発明」という。)と同一であるから,特許法29条の2の規定に該当し,特許出願の際独立して特許を受けることができない,というものである。
審決が先願発明として認定した先願明細書中の参考例1についての記載は,次のとおりである。
「参考例1
3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸の合成」
(甲第4号証11頁右上欄12〜14行)
(@)
「1,2,3,4−テトラフルオロベンゼン50gをバードンらの方法[テトラヘドロン22 2541(1966)]に準じてブロム化及びメトキシ化を行ない無色油状の1−ブロモ−3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゼンを22.21g得た。
得られた油状物22gの無水N−メチル−2−ピロリドン37ml溶液を耐圧管に仕込みシアン化第一銅10gを加え140〜150℃で4.5時間加熱した。冷後反応液に塩化第二鉄・6水和物44g及び濃塩酸11mlの水溶液60mlを加え,50〜60℃に加温し20分間攪拌した。反応液をエーテルで抽出し,有機層は希塩酸水溶液で洗浄後水洗し,さらに飽和食塩水で洗浄した。芒硝乾燥後濃縮し,残渣を減圧蒸留して無色油状の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリルを14.25g得た。沸点94℃/8mmHg」
(同11頁右上欄15行〜左下欄10行,以下,この反応工程を,審決と同じく,「(@)工程
」という。「3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル」を「シアノ体」と略称することがある。)
(A)
「得られた油状物14.2gに濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え110℃で1時間攪拌した。冷後反応液を氷水50ml中に注ぎ析出晶を 取して水洗し,得られた結晶を塩化メチレン−n−ヘキサン混液から再結晶して白色針状晶の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンツアミドを11.59g得た。融点
130−133℃」
(同頁左下欄11行〜17行,以下,この反応工程を,審決と同じく,「 (A)工程
」という。「3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンツアミド」を「アミド体」と略称することがある。)
(B)
「次いで,この結晶に18規定硫酸150mlを加え3.5時間100℃に加熱した。冷後水400mlを加え析出晶を 取し,得られた結晶をn−ヘキサンより再結晶して無色針状晶の目的物を9.61g得た。
融点98〜101℃
元素分析値:C8 H5
F3
O3
計算値:C;46.62, H;2.45
分析値:C;46.68, H;2.48」
(同頁左下欄18行〜右下欄6行,以下,この反応工程を,審決と同じく「 (B)工程
」という。)
第3 原告ら主張の審決取消事由の要点
審決は,先願明細書に3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(以下「MTFBA」という。)であると記載された物質は,その融点が真のMTFBAの融点と異なるため,MTFBAと認めることができないものであるにもかかわらず,MTFBAであると誤認し(取消事由1),先願明細書の記載に従って当業者が追試しても,そこに記載された(A)工程,すなわち,(@)工程によって得られた中間体である3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル(シアノ体)から3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンツアミド(アミド体)への反応は進行せず,MTFBAの合成のための中間体((B)工程における出発物質)は得られないにもかかわらず,これが得られると誤認した(取消事由2)ものであり,これらの誤りがそれぞれ結論に影響を及ぼすことは明らかであるから,違法として取り消されるべきである。
1 取消事由1(先願明細書の参考例1に記載された物質がMTFBAであるとした誤り)
審決は,先願明細書の参考例1について,「(B)工程の生成物の融点が98〜101℃であり,本件特許の請求項1のMTFBAの融点115〜117℃と相違するが,(B)工程の原料,処理手段,元素分析値を考慮すれば,生成物はMTFBAでしかあり得ない。また,先に述べたように,このカルボン酸を原料として,先願明細書及び本件特許明細書のいずれにおいても,同様の反応により同一の化合物であるDFQ(判決注・1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−1,4−ジヒドロ−8−メトキシ−4−オキソ−3−キノリンカルボン酸。以下,単に「DFQ」ということがある。)及びそのエチルエステルを得ていることからも,融点の相違はあるとしても(B)工程の生成物はMTFBAであるといえる。」(審決書8頁28行〜34行)と認定判断した。しかし,先願明細書の参考例1に記載されたMTFBAと称する物質(以下「本件生成物」という。)の融点は,真のMTFBAの融点とは異なる。このようなものをMTFBAと認めることはできない。審決の上記認定判断は誤りである。
(1)
先願明細書の参考例1において,MTFBAと称する物質(本件生成物)は,融点と元素分析値とによって特定されている。このうち,元素分析は,化合物の元素とその組成比とを明らかにするものにすぎない。組成する元素とその組成比との双方が同一である限り(例えば異性体),異なった物質同士であっても同じ値を示す。このため,この分析は,化学構造を特定するためのものとしては,不十分であり,せいぜい傍証程度の意味しか持ち得ない。先願明細書において,物質を同定する上で最も重要で,むしろ唯一の指標というべきものは,そこに記載されている,物質に固有の定数である「融点」の値である。
本件生成物の融点の値として先願明細書の参考例1に記載されているのは,「98〜101℃」である。この値は,MTFBAの真の融点である「115〜117℃」(甲第1号証9頁右欄1行)あるいは「115.6−116.4」(甲第20号証8頁右欄24行)とは15℃も異なる。このように,参考例1に記載された本件生成物の融点の値は,同生成物をMTFBAと同一物質と認定するには余りにかけ離れた数値である。このような状況の下で,本件生成物をMTFBAと認定することは,できないというべきである。
審決が,本件生成物をMTFBAと認定したのは,誤りである。
(2)
審決が,融点が大きく異なるにもかかわらず,本件生成物をMTFBAであると認定したのは,その融点が真の融点より低いのは,MTFBAにその異性体である4−メトキシ体が混入したことによる,と考えたためであると思われる。しかし,先願明細書のMTFBAには不純物が含まれ,その不純物が異性体であるということは,被告のなした根拠のない推論でしかない。そのようなことは,先願明細書のどこにも記載されていない。その推論を裏付ける証拠もない。
そもそも,融点の異なる物質が,想定する物質とは異なる「純物質」であるのか,想定する物質と何らかの物質との「混合物」であるのかという事実自体も,本来容易には認定することができないものである。
本件生成物は,MTFBAと他の何らかの物質との混合物ではなく,MTFBAとは異なる純物質である,と認定するのが合理的である。
ア 純粋な物質の融点は一般に狭い温度幅(通常1℃くらい)であるのに対し,不純な物質の融点は,しばしば広い温度幅を持ち,しかも,純物質の融点よりも低いことが,化学常識である。本件生成物が混合物である場合には,純粋な物質よりも融点の温度幅が広くなっているはずである。ところが,本件生成物の融点範囲は「98〜101℃」で3℃であるのに対し,MTFBAの純物質の融点範囲は「115−117℃」で2℃であるというのであるから,本件生成物は,融点の高低においては,純物質より低く,上記不純物としての要件を満たしているものの,融点の温度幅においては,純物質に比べて格別広くはなく,上記不純物の要件を満たしていないことになるのである。
イ 化合物を特定し確認するために,融点を測定しようとする場合,当該化合物を精製することは,化学技術者であれば当然に行う操作である。現実に先願明細書の参考例1においても,2度の再結晶工程を経ており,融点の測定前に現実に精製を行っている。このような精製工程を経ているにもかかわらず,融点が一致しない物質は,異なる純物質と認定されるべきである。
ウ 先願の出願人は,先願明細書に基づいて分割出願を行い,先願明細書にMTFBAとして記載されているのと同一の物質を独立に特許請求の範囲に記載した特許出願を行っている(甲第13号証)。特許請求の範囲に記載するに足りる特定された物質としては,それが他の不明の物質との混合物であってよいはずがない。先願発明の発明者らは,当該物質を純物質として把握していたことが明らかである。
エ 仮に,本件生成物がある物質とこれとは別の他の物質との「混合物」であるとしても,ある物質と融点が大きく異なり,そのため,他の物質を少量でもなく含むと考えざるを得ないときは,物質としては異なるものと判断するのが化学常識である。本件生成物がこのような混合物であることを認定しながら,MTFBAと同物質であると認定することは,それ自体で明白な誤りである。
オ 審決は,「多少の4−メトキシ体を含むことがあるとしても」(審決書15頁31行〜32行)として,4−メトキシ体の混入量が少量であり,少量の不純物が混入しているにすぎないかのような認定もしている。しかし,前記15℃もの融点の差異は,混入している不純物が少量である場合のものとは,基本的に異なるのである。
そもそも,不純物が混入しているのか否か,混入しているとして,その混合している不純物が異性体である4−メトキシ体であるか,それ以外の不純物かなどは,厳密に検証してみなければわからないはずのことである。ところが,審決は,何らの検証もすることなく,融点の異なる理由が他の物質との混合物であると安易に断定し,しかも混入している物質が4−メトキシ体であると根拠もなく断定しているのである。
カ 審決は,(B)工程の出発物質であるアミド体の融点は純物質の真の値であるとも認定している(審決書13頁11行,29行〜30行)。
本件生成物を混合物とした認定は,アミド体を純物質であるとした上記認定と矛盾する。
先願明細書に記載された(B)工程の「18規定硫酸150mlを加え3.5時間100℃に加熱」という穏和な条件下では,純物質であるアミド体から出発しながら,得られるMTFBAが異性体となったり,メトキシ基が切れて他の物質になったりすることなどはあり得ない。したがって,この場合,得られた目的物は,異性体との混合物になることも,異性体ではない副生物との混合物になることもあり得ない。
先願明細書のシアノ体からアミド体に至る反応((A)工程)で目的物が実際に得られ,得られた3−メトキシ体であるアミド体の融点が真の値に合致しているというのであれば,そのアミド体は純物質であるはずであり,(B)工程で純物質である3−メトキシアミド体から導かれる「目的物」は,4−メトキシ体との混合物であるはずがない。この場合は,得られた目的物は純物質である,としなければ一貫しないのである。
(3)
審決は,「元素分析値に基づく組成も(B)工程の生成物がMTFBAであることを支持している」(審決書8頁26行〜27行)と述べる。しかし,これは誤りである。
ア 元素分析値による「組成」は,物質の構造を示すものではなく,MTFBAであることの傍証にしかなり得ない。
本件生成物の元素分析値は,それが純物質であると仮定しても,その組成式における炭素と水素の比が8:5であり,その分子量が206の整数倍に近いことのみを示すにすぎず,これだけでは,例えば4−メトキシ体などの異性体との区別はできない。本件生成物の主成分は,実はMTFBAではなく,その異性体である,という可能性もある。元素分析の数値を根拠に本件生成物をMTFBAであると認定することは誤りである。
イ 元素分析によって組成を同定するためには,そもそも被検物質が混入物を含んでいてはならない。審決の認定するように,融点が15℃も下がる程度まで不純物を含んでいる混合物では,物質の組成すら同定できず,元素分析などは意味がない。
(4)
審決は,「続く参考例2における製造工程により,順次中間原料を経て最終的に3−メトキシ体から製造されるべきDFQ及びそのエチルエステルを得ているのであるから,先願明細書参考例1の(B)工程により製造されるカルボン酸は,・・・実質的に目的物である3−メトキシ体のMTFBAが製造されているといえる。」(審決書15頁28行〜33行)と述べて,先願明細書の参考例1に
1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンを原料としてMTFBAが,さらに,参考例2に,そのMTFBAを原料としてDFQが,それぞれ実際製造されたと認められる程度に記載されているとし,これらの一連の経路に従って目的物を製造する場合,その途中の化合物が製造できなければ最終段階にまで到達し得ないのであるから,DFQが実際製造できたと認められることは,その途中段階の(B)工程の目的物はMTFBAであることを示している,旨を述べている。しかし,上記の点は,本件生成物がMTFBAであることの根拠とはなり得ない。
ア 審決は,本件生成物が,MTFBAと4−メトキシ体との混合物であると認定している。このようなMTFBAと融点が異なる混合物を原料として,数工程を経てDFQが最終的に得られたとすれば,そのように最終的に得られたDFQの融点等の特性も,本件訂正明細書に記載されたDFQの真の値と一致しないはずである。出発物質の物性が異なりながら,最終生成物の物性が一致するなどというのは,極めて不自然なことであるからである。
先願明細書における本件生成物と,訂正明細書における生成物とを対比すると明らかなとおり,MTFBAの原料としてのアミド体,及び,MTFBAを原料として一連の製造工程の結果として得られるDFQの各融点については,先願明細書における値と本件訂正明細書における値とで実質的に差がないことから,これらは純粋な物質同士の同一物という関係にあるものとみて差し支えない。ところが,肝心のMTFBAについては,その融点が互いに異常に異なっている。アミド体の融点については先願明細書における値と本件訂正明細書における値,さらに実験記録(甲第21号証)の値とも一致するので,先願明細書のアミド体は,異性体との混合物ではなく,純物質である,と考えざるを得ない。純物質のアミド体を出発物質として得られたMTFBAは,当然純物質のMTFBAであるはずであり,その融点も本件訂正明細書のものと一致しなければならない。ところが,先願明細書の記載では,純物質のアミド体から出発したにもかかわらず,得られたのは,なぜか,異性体との混合物としてのMTFBAである,ということになる。
これらの物質が先願明細書に記載された一連の操作で製造されているとするならば,前後の物質が純物質でありながら,中間にあるMTFBAのみが混合物である理由については,全く説明がつかないのである。
このような先願明細書の不合理な記載からすると,実際には,同明細書に記載された工程どおりには物は製造されておらず,そこに記載されているのは,別工程で得られた物質の特性等を借用したものである可能性が高い,ということができる。先願明細書の記載は信ぴょう性を欠くものである。
イ 審決の上記認定判断は,1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンからDFQに至る製造方法が先願明細書に記載された手段しかあり得ないことを前提としたものであり,誤っている。
既に述べた先願明細書のアミド体とMTFBAとの融点に関する矛盾,及びMTFBAとDFQとの融点に関する矛盾,の双方からみて,先願明細書のアミド体,MTFBA及びDFQは,先願明細書とは異なる製造方法によってそれぞれ別々に製造されたものか,若しくは,実際には製造されていないものを,便宜上,一連の方法で製造されたかのように先願明細書に記載したものである可能性が高い。そうでないとすると,先願明細書における融点の喰い違いの事実は,どうしても説明がつかないのである。
先願明細書の不合理な記述からすると,少なくともアミド体からMTFBAが得られたとする記述は,事実に基づかないものであるというほかない。実際にはMTFBAは得られておらず,そのために融点が一致しないのである,としか理解できないのである。
ウ 被告の主張において,先願明細書記載の工程でMTFBAが得られたと考えるべき根拠とされているのは,結局のところ,原料及び反応工程の記載があることのみである。しかし,その原料(アミド体)自体が純物質であるのに,得られたMTFBAが混合物である理由の説明がつかず,製造工程の記載も明白に誤っており,得られたはずの目的物の融点も事実とははるかに相違する,というのであるから,先願明細書にMTFBAが記載されていると評価することはできない。被告の主張は,技術的な根拠に基づかない単なる推測にすぎない。
当業者が現実に先願明細書を追試したとしても,そこに記載された方法では目的物が得られず,仮に他の方法で真のMTFBAを得たとしても,先願明細書に記載された融点とは全く異なるため,先願明細書の物質との同一性を確認することはできない。先願明細書は,MTFBAの製造技術としては当業者に対し何の貢献もしていない。このような先願明細書によって後にされた特許出願の真の発明者の権利を否定するのは,どうみても特許法の趣旨にそぐわない。
2 取消事由2(先願明細書にMTFBAの合成のための中間体を製造することができるように記載されているとした誤り)
審決は,先願明細書の,シアノ体を加水分解してMTFBAの原料物質であるアミド体を得る反応((A)工程)についての記載中の「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」という記載が適切でないものであり,先願明細書の記載どおり追試しても,その反応が進行しないことを認めながら,その反応については,「80%程度以上の高濃度の硫酸を使用することが通常採用されている方法として技術常識であった」(審決書6頁9行〜10行,同8頁4行〜6行)として,当業者であれば,訂正明細書に記載されたとおりに追試して,その反応が進行しなかったとしても,「その30%にも満たない濃度の硫酸の記載が,この種の反応における技術常識からみて,適切でないものであることを理解して、高濃度硫酸を適宜使用することにより、該アミド体生成物の融点の記載を確認データとしつつ、過度の実験を要することなく該アミド体を製造することができたといえる。したがって、先願明細書は,MTFBAの製造方法における前記(A)工程のシアノ体からアミド体への加水分解反応の記載において,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」という一部の記載が適切でないものの、当業者であれば、該(A)工程の記載に基づいて、先願の出願時の技術常識を参酌することにより、そのアミド体を得ることができたといえる。」(審決書8頁7行〜18行)と判断した。しかし,この判断は,誤りである。
(1)
審決は,「80%程度以上の高濃度の硫酸を使用することが通常採用されている方法として技術常識であった」と認定し,「30%にも満たない濃度の硫酸の記載が、この種の反応における技術常識からみて、適切でないもの」であり,当業者には「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」の記載が誤記であることが理解できると判断した。しかし,この判断は,誤りである。
ア 芳香族ニトリルを芳香族アミドに変換する反応においては,高濃度の硫酸のみならず,「水」や「希硫酸」(4N,すなわち20%硫酸),さらには酸以外のものも使用されている(甲第10号証,第14ないし第16号証)。
審決は,ニトリルを加水分解してアミドに変換するためには濃硫酸を用いることのみが唯一可能な手段であり,希硫酸でニトリルを加水分解することが常識に反すると一方的に思い込んでいる点で,技術常識自体を誤認しており,基本的に誤っている。ニトリルのアミド化は濃硫酸による,ということは技術常識である,ということはできないのであるから,先願明細書中の(A)工程において希硫酸でニトリルの加水分解を行っているとの明確な記載を,直ちに,誤記であるとか,常識に反するなどと当業者が理解することはあり得ない。
イ 仮に,ニトリルを濃硫酸によって加水分解を行ないアミドに変換する技術がよく知られているとしても,そのような知見がすべてのニトリルの加水分解反応に当てはまるわけではない。
化学反応においては,目的外の反応が起きる反応条件を避け,選択的に所望の反応のみが生起するように反応条件を選ぶこともまた,技術常識である。
メトキシ基を有する芳香族ニトリルについて,濃硫酸は化合物中に存在するメトキシ基を開裂させる性質があること,メトキシ基を有する芳香族ニトリル化合物の濃硫酸によるアミド化反応を失敗とし,カセイカリ水溶液によるアミド化を成功としていることも,他方で知られている(甲第11,第12号証)。先願明細書に記載された(A)工程において希硫酸を用いるとの記載は,濃硫酸の採用をあえて避けて選択した反応条件であるとすら理解することができるのである。
当業者にとって,メトキシ基を開裂させることなしにニトリルを加水分解する条件の選定は難しく,被告が一般的な技術常識と主張する単純な加水分解の技術は,当然のこととして本件に当てはめることができる,というわけのものではない。
先願明細書に記載された(A)工程において,メトキシ基を有する芳香族ニトリルであるシアノ体の加水分解を希硫酸で行ったとの記載を,直ちに,誤記であるとか,常識に反するなどと当業者が理解することはあり得ない。
ウ 先願明細書に記載された(A)工程は,その追試を行なわなければ,反応が進行しないことなどは分からなかったのであり,その記載を見ただけで直ちに,誤記があるとか,技術常識に反する記載があるとかいうことを読み取ることができるものではない。
追試において反応が進行しないことが分かったとしても,反応が生起しない原因が,上記のとおり,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」の部分にあるのか,それとも,温度条件,反応時間,試剤の濃度・比率などの他の反応条件にあるのか,などは,追試者にとって全く分からないことである。
先願明細書に記載された(A)工程においては,ニトリルと濃硫酸をモル比1対2の割合で反応させている。一方,審決が挙げた周知技術においては,濃硫酸の原料のニトリルに対する割合は,モル比で数倍〜10数倍もの量であり,そのモル比で(A)工程を追試すると,その大半はメトキシ基(OMe)が分解してしまい,目的のアミド体は極めて悪い収率でしか得られない(甲第18号証の1,2)。そのため,
先願明細書に記載された(A)工程においては,濃硫酸の原料のニトリルに対する使用割合を小さくするという特殊な条件を選択してメトキシ基の開裂を避けたものとも理解することができる。
しかし,そのような理解ができるとしても,やはり,メトキシ基を有する芳香族ニトリルであるシアノ体の加水分解の反応条件が特殊であり,その設定が容易ではないことは,明らかである。結局,先願明細書に記載されているところを追試しようとする場合には,それらの条件の全部を設定し直して一々反応をさせてみないと所期の反応が起きるかどうかが分からないのであるから,先願明細書には,アミド体を得る手段が当業者にとって追試が可能なようにに記載されておらず,したがって,そのアミド体を原料とするMTFBAの製造工程も開示されていない,というべきである。
そもそも開示が不十分であるのに,誤記があるとか,技術常識に反する記載があると当業者が把握することはないというべきである。
エ 当業者が,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」との先願明細書の記載が誤りであるなどとは,ましてや,その「水40ml」の記載部分のみが誤りであるなどとは,当然には受け取らないことは,上記のとおりである。
先願明細書に記載された条件から水40mlを除いた条件のみが技術常識であることが示されている文献などは全く存在せず,これが技術常識であるとする根拠はどこにもない。そのような知見は,審判の経過において出願人に問い合わせることによって得られた回答によって初めて分かった事柄である。
審決は,要するに,先願明細書の記載を無視した上,明細書からも出願当時の技術文献からも分からない,いわば「出願人の主観的な事情」を,先願明細書の記載に置き換えて実施可能性を認定したものである。このようなことは,特許法29条の2の趣旨から許されない。出願人に照会しなければ明らかとならない事項が出願当時の技術水準であるなどということは,およそあり得ることではない。審決が出願後に現れた先願発明の出願人の主観をもって先願明細書の記載を補ったことは,明らかな違法である。
先願発明の出願人は,上記審尋に対する回答において,先願明細書の参考例1について,その記載どおりではアミド体の合成ができないことを明言し,「水40ml」の記載のみを,「勘違い」をして実験記録の欄外の記載を誤って記入した誤記であったとしている。しかし,このようなアミド化反応を濃硫酸で行うことが当業者の「常識」であったのなら,当業者である出願人がそのような「勘違い」をし,実験記録の欄外の記載を誤って記入したなどということは,極めて不自然であり,上記説明は,到底納得し難いものである。さらに,出願に当たっては発明者を含む技術者のチェックを経るのであるから,そのような「常識」に反する誤記が見過ごされたというのも不自然である。
仮に,先願明細書の記載が,競業者に追試できないようにするために,悪意によってノウハウ部分を隠蔽した実施不能な記載とされていたとしたならば,そのような先願明細書について,後の事情でその補充が許されることが認められるはずがない。
このように,先願明細書の記載は,その誤記であるとする理由が出願人の故意によるか過失によるかはともかく,客観的にはこれによって実施することは不能である。そのような実施不能の記載をもって,実際に実施可能である後願の発明を排除することは許されない。
オ 当業者であれば,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」との記載(希硫酸を使用するとの記載)が適切でないことを理解して濃硫酸を適宜使用することでアミド体を得ることが可能であったとの審決の認定は,先願明細書の記載が客観的に誤っていることを認めておきながら,先願明細書に記載のない濃硫酸を使用すればアミド体が現実に得られるという事実について明らかにしていない点においても,「メトキシ基を有する本件ニトリル化合物」について希硫酸を使用することが技術常識に反するのか否かについて全く検討していない点においても,不備がある。これらの点についての主張立証責任は被告にある。審決は,少なくとも,必要な判断を経ないで結論に至っており,取り消されなければならないことは,明らかである。
先願明細書について,希硫酸を用いるのではなく,濃硫酸を用いればアミド体が得られることを上記審尋に対する回答書によって認定したものであるとするならば,先願の出願後明らかにされた先願出願人の主観的事情に基づいて認定していることになり,その違法は更に明白である。
(2)
審決は,「該アミド体生成物の融点の記載を確認データとしつつ、過度の実験を要することなく該アミド体を製造することができたといえる」(審決書8頁11行〜13行)として,アミド体の融点を確認データとして用いることにより,アミド体の製造ができる,と述べている。先願明細書に記載されているアミド体の融点(130〜133℃)の値は,真の値(131〜133℃)に近いので,その値がアミド体の生成の確認データとなる,というのである。
しかし,アミド体の融点を確認データとすることができるとの上記判断は,本件生成物が「混合物」であるとした審決の認定と矛盾する。審決はアミド体から更に生成される本件生成物の融点が,実際のMTFBAの融点と著しく異なっているという先願明細書の記載の大きな矛盾点を看過しているか,若しくは無視している。もし,本件生成物が審決の認定するような混合物であるなら,その前段のアミド体も正体不明の混合物であり,たまたまその融点が客観的なアミド体の融点と一致したとしか解釈のしようがない。そのようなデータを確認データとして,過度の実験を要することなくアミド体を製造することができた,などということはできない。
(3)
特許法29条の2における発明の同一性の認定は,後願の特許請求の範囲に記載された発明と,先願明細書に記載された発明との忠実な対比によって行うべきである。先願明細書に記載された発明と後願の発明とを比較しても同一性が認定できない場合に,先願明細書の記載内容を離れ,先願明細書の記載内容を無視したり,先願明細書に記載のない事項を補ったりしてその同一性を認定するのは,特許法29条の2の趣旨に反する。
ア 特許法第29条の2の後願排除力が認められる先願発明というためには,当該発明が「完成された発明」として先願明細書に記載されていなければならない。
「完成された発明」というためには,
@ 当該明細書の記載や当時の技術水準から当業者において反復実施できなければならない(以下,「反復実施可能性」という。),
A 実験結果等の裏付けがあって初めて発明が認識できる技術分野にあっては,その裏付けとなる実験結果が出願時の明細書に十分記載されていなければならない(以下,「客観性」という。)
B 構成等が具体的に記載されていなければならない(以下,「具体性」という。)
という三つの要件が必要である。
先願明細書には,誤記があるため,これをそのまま追試しても本件生成物を全く得ることができない。本件生成物は,少なくとも「反復実施可能性」及び「客観性」の要件を満たしておらず,「完成された発明」ということができない。
「反復実施可能性」を検討するに際しては,明細書の記載のほか,当時の技術水準を斟酌することができる。しかし,明細書に誤記がある場合にまで,この原則をそのまま適用することはできない。法29条の2は,例外規定であるから,その適用は厳格になされなければならないからである。本件で問題となっている化合物の分野では,ある場面の技術常識は他の技術常識と相矛盾するか,そのままでは適用できないことがしばしば見受けられるため,明細書に何らかの記載があれば,当業者はそれに従って追試を行うのであり,一見して明白な誤記でない限り,当業者は誤記の存在を認識することなどできない。このため,先願明細書に記載された製法に忠実に従って実施できるか否かが検討されなければならないのである。先願明細書の記載内容を離れ,先願明細書に記載のある内容を無視したり,先願明細書に記載のある事項を記載のない事項に置き換えて実施可能性を認定することは,実施可能性を欠く先願明細書をもって,本件訂正発明の特許性を否定するものであって,誤りである。
イ 仮に誤記を訂正して解釈してよい場合があるとしても,それは無条件でよいはずはなく,いかなる場合にそのような認定をし得るのか,その基準と許される範囲を確定し,本件の誤記は当該範囲内であるからこれが許される,とする合理的な論理が必要である。後になって誤記であることが客観的に明らかになれば,いかなる場合にでもその記載内容と異なる内容を認定してよいというのであれば,著しく法的安定性を害する上,正しい記載をした後願発明者の犠牲の下に不適当な記載をした悪しき先願発明者を保護することにもなるからである。どのような誤記であれば明細書の記載と異なる認定が可能であるのかの基準を確定しなくては,当該誤記をどのように扱うのかを決しようがない。
原告らは,この点について,審判の審理において特許法29条の2の引用発明の解釈において誤記として許容される範囲は,誤記の訂正として訂正が認められる範囲と同様と解釈すべきであり,真実の製造方法とされるものが,先願明細書の記載から直接的かつ一義的に導き出せるものでなければならない,と指摘した。それにもかかわらず,審決は,当該争点があることは認めながら(審決14頁14行〜22行),この点についてなんら判断することなく,誤記を訂正した内容が当然に真実の記載内容となるものであることを前提に,先願明細書の記載内容を認定した。このことは,重要な法律解釈について判断を遺漏し法令の解釈を誤ったものというべきである。
ウ 先願明細書を客観的にみると,MTFBAを実際に製造するに当たり@目的物を得るために必要不可欠な新規な中間物質に至る製造工程の記載,A目的物質の同定のために最も重要な指標である融点の記載,という極めて重要な部分において,記載が誤っている。このような産業の発展に何ら資することのない先願明細書の記載によって,正しい技術を初めて世に開示した後にされた特許出願を排除することは,特許法第29条の2の趣旨に反する。
仮に,当業者が,「誤記」であるとする部分を修正して濃硫酸を使用し,MTFBAを得る過程を正しく追試したとしても,これによって得られた物質の融点が記載された融点と異なっていれば,得られた物質をMTFBAと同定することはできない。当業者には,反応が正しかったのか否か,得られた物質がMTFBAなのか否かが全く分からないのである。
このような先願明細書の記載は,あえて当業者が明細書の追試をすることができないように記載したとの疑問さえ生じるものであって,およそ当業者に技術を開示すべき特許明細書の記載としては極めて不適切なものである。このような先願明細書に特許法第29条の2が規定する後願排除力を認めるとするならば,正しき後願の出願人の犠牲の上に悪しき出願人を保護することに帰し,特許法の趣旨に反する結果となることは,明白である。
第4 被告の反論の要点
審決の認定判断は正当であり,審決に,取消事由となるべき誤りはない。
1 取消事由1(先願明細書の参考例1に記載された物質がMTFBAであるとした誤り)について
(1)
原告らは,先願明細書の参考例1に記載された工程によって得られた本件生成物の融点は,MTFBAの融点より低く,また,融点範囲の幅が小さいから,実際にはMTFBAではなく,別物質であると主張する。
ア 融点の一致は,確かに,化学物質の特定の有力な手段である。しかし,結局のところ一手段にすぎない。融点及びその幅のみをもって化学物質の異同を判断するのは,正しくない。
一般に,化学反応により製造された化学物質は,程度の差はあれ望まれない成分である不純物をも含むものであり,そのような不純物の混入した化学物質は,純粋な化学物質よりも融点が低下することが知られている。融点が相違することのみをもって目的物と相違するとされるものではない。また,不純な物質の融点幅は,常に広いというものではない。融点の低下の程度からその混入量が一義的に決まるというわけでもない。
原告らの主張は,常に,純粋な物質は狭い温度範囲で融解し,不純な物質の融点は広い温度範囲を持ち,しかも純物質の融点よりも低い,ということを前提とするものであり,その前提において既に誤りがある。
先願明細書の参考例1には,最終的に無色針状晶の結晶が得られたこと,その元素分析値も求められていることが記載されているのであるから,参考例1において何らかの化学物質が得られたことは明らかである。そして,参考例2でその化学物質を原料として最終物質であるDFQが製造されていることからすれば,中間段階のその化学物質はMTFBAであるということができる。
イ 原告らは,審決が,本件生成物を,その融点がMTFBAのものとは異なるにもかかわらず,MTFBAと認定するに当たり,融点が異なるのは,3−メトキシ体であるMTFBAにその異性体である4−メトキシ体が混入したためである,と断定したことは誤りである,と主張する。
しかし,審決は,(A)工程の出発物質であるシアノ体製造の際の4−メトキシ体の副生が記載されているので,それから製造されるMTFBAにおいても4−メトキシ体の混入が考えられると述べたにとどまり,混合物であること,不純物が4−メトキシ体であることを断定したものではない。
ウ 原告らは,融点が大きく異なり,何らかの物質との混合物であるとされる物質は,物質としては異なるものと判断するのが化学常識であるとし,混合物であることを認定しながら,本件生成物と本件発明の化合物とを同一物質と認定することは,それ自体で明白な誤りである,と主張する。
しかし,不純物を含む混合物であっても,純粋な化学物質の名称をもって呼ばれることもある。先願明細書の参考例1における「目的物」をMTFBAと認定することは何ら化学常識に反することではない。
(2) 原告らは,元素分析値に基づく組成を同一性の根拠とすることはできない,と主張する。
確かに,元素分析値は物質を構成する元素の比率を示すにすぎないものである。しかし,原料及び反応手段から予測される化学物質の計算値と,生成物の元素分析値とを比較することは,その予測される化学物質の生成を確認するための有効な手段である。
先願明細書の参考例1に記載された(B)工程におけるアミド体の加水分解についていえば,その元素分析値は,メトキシ基の脱離等の副反応を生起することなくカルボン酸が生成していることを教示するものである。
(3)
先願明細書には,抗菌剤として有用な新規なキノロンカルボン酸誘導体について記載されるとともに,その原料化合物である新規なキノロンカルボン酸(DFQ)の製造方法として参考例1及び2が記載されている。先願明細書及び訂正明細書の両者に記載されたDFQ及びそのエチルエステルの物性等は一致しているということができ,これにより,先願明細書の参考例1及び2の製造方法においてDFQ及びそのエチルエステルが製造されたということができる。
一連の合成経路に沿って目的物を製造する場合,その途中の化合物が製造できなければ最終段階にまで到達し得ないのであるから,先願明細書記載の合成経路においても,途中段階の化合物であるMTFBAが実際に製造されたものであることは明らかである。
原告らは,実際のMTFBAと融点が異なる物質を原料として,数工程を経てDFQが最終的に得られたとすれば,そのように最終的に得られたDFQの融点等の特性も,本願明細書に記載されたDFQの真の値と一致しないはずであり,出発物質としてのMTFBAの物性が異なりながら,最終生成物のDFQの物性が一致するなどということは,極めて不自然である,と主張する。
先願明細書の参考例2には,MTFBAから5工程を経てDFQを製造する方法が記載されている。そこでは,酸クロライドを製造する工程で蒸留による精製が,シクロプロピルアミノアクリル酸エチルを製造する工程でカラムクロマトによる精製が,さらに,キノリンカルボン酸エチルを製造する工程で再結晶によるによる精製が,それぞれ行われている。
このように精製工程を繰り返し行えば,原料として多少の不純物が含まれているとしても,少量成分である不純物が最終的に取り除かれることは技術的にみて当然のことであり,最終生成物のDFQの物性が一致することは,何ら常識に反するものではない。
2 取消事由2(先願明細書にMTFBAの合成のための中間体を製造することができるように記載されているとした誤り)について
(1)
原告らは,シアノ体からアミド体への加水分解において濃硫酸を用いるのは技術常識などではないと主張し,その根拠として高濃度の酸を用いるものではない加水分解について記載する文献(甲第10,第12号証)を挙げる。
しかし,高濃度の酸を用いずにニトリルを加水分解をする反応が知られているとしても,これらの反応は,初め高濃度の酸を用いて反応を試みたところ好ましい結果が得られなかったことから,より穏和な反応条件を求めて試行錯誤を繰り返した結果,採用されるに至ったものである。上記各文献は,結果として高濃度の酸を使用しない反応について述べるものではあるものの,ニトリルの加水分解反応の第一の選択肢は,高濃度の酸を用いることであることをも示しているのである。
しかも,上記各文献からは,80%より多少低くした濃度の硫酸(65%,70%)で反応することがあることが認められるにとどまり,30%にも満たない濃度の硫酸によりニトリルの加水分解を行うことが技術常識であることを導き出すことはできない。
先願明細書の参考例1を追試して目的の反応が生起しないとしても,技術常識をもってすれば,当業者は,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」という記載が適切でないことを判断することができるから,先願明細書からアミド体を製造することが当業者にとって可能であるということができるのである。
(2)
原告らは,審決が中間体のアミド体の融点を確認データとすることができると述べたのは,MTFBAが「混合物」であるとの認定と明らかに矛盾している,と主張する。
審決が,アミド体生成物の融点の記載を確認データとしつつ,過度の実験を要することなくそのアミド体を製造することができる旨を述べたのは,参考例1に記載された(A)工程の追試において,高濃度硫酸を使用することによりアミド体が得られたことが確認できる,すなわち,参考例1のプロセスで反応が進行していることを確認できる,とするものである。
参考例1のプロセスで生成されるアミド体が4−メトシキ体を含むものであるとしても,その追試においては,アミド体が生成されればよいのであるから,この融点の記載が確認データとなるのである。
審決が上記のように述べたことは,MTFBAが「混合物」であるとの認定とは何ら矛盾しない。
(3)
先願発明について,原告らが,発明が完成されたものとして必要であると主張する要件を検証する。
ア 反復実施可能性について
先願明細書の参考例1には,MTFBAの製造について,(B)工程が記載されている。アミド体が酸により加水分解されてカルボン酸になるのはよく知られた反応であり,また,この反応において原料となるアミド体は,当時の技術常識を考慮すればシアノ体に高濃度の硫酸を作用させることにより製造できるものである。
したがって,先願発明は,先願明細書の記載及び当時の技術水準に基づき,当業者において反復実施可能なものである。
イ 客観性について
先願明細書には,MTFBAの製造の裏付けとなる実験結果として,生成物の性状(無色針状晶),融点,元素分析値が記載されており,十分に客観性がある。
1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンを出発原料として先願明細書の参考例1の合成経路をたどれば,先願明細書に記載された融点を示すはずであり,MTFBA生成の客観性ある裏付けとなり得るのである。
ウ 具体性について
先願明細書には,化合物名3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸をもって特定されており,構成が具体的に記載されている。
以上のとおり,先願発明は,上記三つの要件を満足するから,先願明細書における3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸は,「完成された発明」であり,訂正発明と対比すれば,同一であることが明らかである。
なお,MTFBAの製造原料となるアミド体については,その製造の実施可能性を「そこに記載された製法に従って実施できる」かどうか厳密に検討する必要はなく,1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンを出発原料としてアミド体を製造することが,先願明細書の記載から出願当時の技術常識を考慮して当業者に実施可能であると判断されれば十分である。
(4)
原告らは,審決が誤記を訂正して解釈できる範囲について判断しなかったのは,判断を遺脱し,法令の解釈を誤っている,と主張する。
原告らのいう「誤記」とは,(A)工程における「濃硫酸8.5ml及び水40ml」の記載のことであると考えられる。しかし,審決は,訂正発明と対比すべきMTFBAの発明を認定するに当たり,この不適切な記載の訂正について,何の判断もしていない。
MTFBAの原料であるアミド体の製造については,これは,1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンを出発原料として,1−ブロモ−3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゼン,シアノ体を経て製造することが実施可能で,MTFBAの製造に当たり入手可能であると当業者が判断することができれば十分であり,技術常識からすればシアノ体に高濃度の硫酸を作用させればアミド体が生成することは明らかであるから,不適切な記載についてどのように訂正すべきかを判断する必要性は全くない。
(5)
原告らは,先願明細書には,化合物を実際に製造するに当たり極めて重要な部分において事実に反する記載が複数存在し,このような重要な部分において誤っている結果,産業の発展に何ら資することのない先願明細書によって,正しい技術を初めて世に開示した後願を排除することは,特許法第29条の2の趣旨に反する,と主張する。しかし,先願明細書中,事実に反する記載は,「濃硫酸8.5ml及び水40ml」との記載だけである。MTFBAの融点の相違については,先願明細書の参考例1の工程をたどればMTFBAの融点は参考例1の数値を示すはずであり,事実に反するものではない。
先願明細書には,上記のような不適切な記載はあるものの,参考例1には,1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンから出発してシアノ体,アミド体を経てMTFBAを製造する方法が,参考例2には,MTFBAから幾つかの化合物を経てDFQさらにはそのエステルを製造する方法が,具体的な反応手段とともに記載されている。また,それぞれの生成物には,その性状,沸点,融点若しくは元素分析値が記載されている。
そうしてみると,先願明細書は,部分的に不適切な記載はあるとしても,1,2,3,4−テトラフルオロベンゼンから一連の工程を経てDFQを製造する方法の発明,及び,中間に生成するそれぞれの化合物の発明を公表するものであり,産業の発展に十分寄与するといい得るものである。
これに対して,訂正発明は,MTFBAの発明であり,新しい技術を何ら公開するものではない。このような発明が特許を受けることができないことは,特許法第29条の2の趣旨からして当然である。原告らの主張は理由がない。
第5 当裁判所の判断
1 訂正明細書の記載について
訂正明細書には,MTFBA及びDFQの製造について,次の記載がある(甲第2号証の2)
ア「[実施例1]
3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル(判決注・シアノ体)(XXXIIb)の合成
【化12】
参考例1で得た3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロアニリン(XXXIIa)1.01g(0.0056モル)を酢酸3ml,水2.
5ml,
濃硫酸1.68g(0.0168モル)の混液に溶解し,0℃に冷却後,亜硝酸ナトリウム0.46g(0.0066モル)を含む水溶液1mlを撹拌下,0−3℃で滴下した。滴下終了後,同温度で30分間撹拌し,ジアゾニウム塩溶液を得た。
一方,硝酸銅5水和物1.80g(0.0072モル)を水10mlに溶解し,これにシアン化カリウム1.95g(0.03モル)を含む水溶液5mlを攪拌下20℃以下で滴下,得られた褐色透明溶液に炭酸水素ナトリウム4.02g(0.048モル)を添加後,ベンゼン30mlを添加した。
この2層になった溶液に,激しく攪拌しつつ前記のジアゾニウム塩溶液を30〜45℃で滴下し,滴下終了後,反応混液を65℃まで加熱した。室温に冷却後,ベンゼン層を分取し,水洗,乾燥後,減圧留去し,残渣をシリカゲルカラムクロマトグラフィー(溶媒;トルエン)に付し,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル(判決注・シアノ体)(XXXIIb)0.77gを赤色油状物として得た。
IRスペクトル(フイルム法,νmaxcm-1
):2250,1620,1500,1480,1120,1080」(甲第4号証段落【0076】〜【0081】)
イ「[実施例2]
3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(判決注・MTFBA)(XXXIId)の合成
【化13】
実施例1で得た3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル(判決注・シアノ体)(XXXIIb)1.24g(0.007モル)に濃硫酸5mlと水1.2mlを添加し,100−140℃で30分間加熱後,氷水に注加し,酢酸エチルで抽出した。酢酸エチル層を水洗し乾燥後,減圧乾固し,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンズアミド(判決注・アミド体)(XXXIIc)1.10gを淡褐色粉末として得た。
融点131−133℃
MSスペクトル:m/e 205(M+),189(M+−NH2)
上記のようにして得た3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンズアミド(判決注・アミド体)(XXXIIc)46.4g(0.226モル)を水900mlに懸濁し,1N水酸化ナトリウム226ml(0.226モル)を加えて攪拌下2時間加熱還流して加水分解した。室温にまで放冷後,酢酸エチルで抽出して未反応物を除去し,水層を塩酸で酸性とした。析出する結晶を酢酸エチルで抽出,有機層を水洗し乾燥後,減圧留去して3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(判決注・MTFBA)(XXXIId)37.1gを無色針状結晶として得た。
融点115−117℃
MSスペクトル:m/e 206(M+),189(M+−OH),161(M+−COOH)
NMRスペクトル(CDCl3,δ);4.09(3H,s,OCH3),7.50−7.62(1H,m,aromH),8.0−10.0(1H,br,COOH)」(同号証段落【0081】〜【0085】)
ウ「[参考例2]」
1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−8−メトキシ−1,4−ジヒドロ−4−オキソキノリン−3−カルボン酸エチルエステル(XXXIIIa,R12=エチル)(判決注・DFQのエチルエステル)の合成
【化14】
実施例2で得た3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(判決注・MTFBA)(XXXIId)1.14g(0.0055モル)を乾燥ベンゼン10mlに溶解し,塩化チオニル5mlを加えて1時間加熱還流した。反応後,ベンゼンおよび過剰の塩化チオニル5mlを加えて1時間加熱還流した。反応後,ベンゼンおよび過剰の塩化チオニルを完全に留去し,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸クロリド(XXVII´)を得た。
一方,マグネシウムエトキシド0.68g(0.006モル)とマロン酸ジエチルエステル0.96g(0.006モル)を無水ジエチルエーテル15ml中,1時間加熱還流することによって,エトキシマグネシウムマロン酸ジエチルエステルのジエチルエーテル懸濁液を得た。これを攪拌下,室温で,上記の酸クロリドをジエチルエーテル10mlに溶解した液を滴下し,更に室温で1時間攪拌した。反応終了後,1N塩酸を加えて酸性とし,酢酸エチルで抽出し,酢酸エチル層を水洗,乾燥後,減圧乾固し,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイルマロン酸ジエチルエステル(XXVII´;R12=エチル)1.8gを褐色油状物として得た。
これをジオキサン30mlに溶解,触媒量のp−トルエンスルホン酸を加え,20時間加熱還流し,溶媒を減圧留去,残渣を酢酸エチルで抽出した。酢酸エチル層を炭酸水素ナトリウム水溶液,次いで水で洗い,乾燥後,減圧乾固して,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル酢酸エチルエステル(XXIX;R12=エチル)1.45gを淡褐色油状物として得た。
MSスペクトル:m/e 276(M+),189(M+−CH2COOC2H5),161(M+−COCH2COOC2H5)
このようにして得られた3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル酢酸エチルエステル(XXIX;R12=エチル)1.40g(0.005モル)に無水酢酸3.5mlとオルトギ酸エチル1.1mlを添加し,1時間加熱還流後,減圧濃縮した。残渣をジクロルメタン10mlに溶解し,氷冷,攪拌下,シクロプロピルアミン0.38g(0.006モル)を滴下,更に30分間攪拌した。溶媒を減圧留去し,残渣をシリカゲルカラムクロマトグラフィー(溶媒;トルエン−酢酸エチルの9:1混合液)に付し,3−シクロプロピルアミノ−2−(3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル)アクリル酸エチルエステル(XXXI´;R12=エチル)1.23gを淡褐色油状物として得た。
MSスペクトル;m/e 343(M+),189(M+−Prc−NH−CH−C(CO2Et))(Prc:シクロプロピルを示す)
次いでこの3−シクロプロピルアミノ−2−(3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル)アクリル酸エチルエステル(XXXI´;R12=エチル)1.20g(0.0035モル)を無水テトラヒドロフラン30mlに溶解し,60%水素化ナトリウム150mg(0.0035モル)を加え室温で30分間攪拌し,1N塩酸で酸性とした後,酢酸エチルで抽出した。酢酸エチル層を水洗,乾燥後,減圧濃縮し,1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−8−メトキシ−1,4−ジヒドロ−4−オキソキノリン−3−カルボン酸エチルエステル(判決注・DFQのエチルエステル)(XXXIIIa;R12=エチル)0.83gを無色針状結晶として得た。
融点180−182℃
MSスペクトル:m/e 323(M+),251(M+−CO2Et),41(C3H5+)」(段落【0085】〜【0092】)
エ「[参考例3]
1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−8−メトキシ−1,4−ジヒドロ−4−オキソキノリン−3−カルボン酸(判決注・DFQ)(XXXIIIb)の合成
【化15】
参考例2で得られた1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−8−メトキシ−1,4−ジヒドロ−4−オキソキノリン−3−カルボン酸エチルエステル(判決注・DFQのエチルエステル)(XXXIIIa;R12=エチル)0.48g(0.0015モル)をメタノール20mlに溶解し,4%(W/V)水酸化ナトリウム水溶液10mlを添加して室温で5時間放置した後,濃塩酸で酸性とし析出する結晶を濾集して,1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−8−メトキシ−1,4−ジヒドロ−4−オキソキノリン−3−カルボン酸(判決注・DFQ)(XXXIIIb)0.34gを無色粉末状結晶として得た。
融点184−185℃
MSスペクトル:m/e 295(M+),251(M+−CO2)
元素分析値%(C14H11F2NO4として)理論値 C,56.95;H,3.76;N,4.75 分析値 C,56.90;H,3.84;N,4.56」(【0092】〜【0095】)
2 先願明細書の記載について
先願明細書には,MTFBA及びDFQの製造について,次の記載がある(甲第4号証)
ア「参考例1
3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(判決注・MTFBA)の合成
1,2,3,4−テトラフルオロベンゼン50gをバードンらの方法[テトラヘドロン22 2541(1966)]に準じてブロム化及びメトキシ化を行ない無色油状の1−ブロモ−3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゼンを22.21g得た。
得られた油状物22gの無水N−メチル−2−ピロリドン37ml溶液を耐圧管に仕込みシアン化第一銅10gを加え140〜150℃で4.5時間加熱した。冷後反応液に塩化第二鉄・6水和物44g及び濃塩酸11mlの水溶液60mlを加え,50〜60℃に加温し20分間攪拌した。反応液をエーテルで抽出し,有機層は希塩酸水溶液で洗浄後水洗し,さらに飽和食塩水で洗浄した。芒硝乾燥後濃縮し,残渣を減圧蒸留して無色油状の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾニトリル(判決注・シアノ体)を14.25g得た。沸点94℃/8mmHg
(判決注・(@)工程)
得られた油状物14.2gに濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え110℃で1時間攪拌した。冷後反応液を氷水50ml中に注ぎ析出晶を 取して水洗し,得られた結晶を塩化メチレン−n−ヘキサン混液から再結晶して白色針状晶の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンツアミド(判決注・アミド体)を11.59g得た。融点
130〜133℃
(判決注・(A)工程)
次いで,この結晶に18規定硫酸150mlを加え3.5時間100℃に加熱した。冷後水400mlを加え析出晶を 取し,得られた結晶をn−ヘキサンより再結晶して無色針状晶の目的物(判決注・MTFBA)を9.61g得た。
融点98〜101℃
元素分析値:C8 H5
F3
O3
計算値:C;46.62, H;2.45
分析値:C;46.68, H;2.48
(判決注・(B)工程)」(甲第4号証11頁右上欄12行〜右下欄6行)
イ「参考例2」
1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−1,4−ジヒドロ−8−メトキシ−4−オキソ−3−キノリンカルボン酸(判決注・DFQ)の合成
3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(判決注・MTFBA)9.4gに塩化チオニル50mlを加え3時間還流した。塩化チオニルを留去後残渣を減圧蒸留して黄色油状の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイルクロライド8.86gを得た。沸点108〜112℃/20mmHg
マグネシウムエトキサイド5.9gにマロン酸ジエチル7gの無水トルエン35ml溶液を滴下し50〜60℃で2時間加温した。次に−10℃に冷却後先の酸クロライド8.86gの無水トルエン10ml溶液を15分間で滴下した。−5℃〜0℃で1時間攪拌後濃硫酸8mlを含む氷水30mlを加えトルエン層を分取した。有機層は飽和食塩水で洗浄後無水芒硝で乾燥して濃縮し,かっ色油状のジエチル−3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイルマロネート13.64gを得た。
得られた油状物13.55gに水20ml及びp−トルエンスルホン酸14mgを加え9時間還流した。冷後反応液を塩化メチレンで抽出し,有機層を7%炭酸水素ナトリウムで洗い,次いで飽和食塩水で洗った。有機層を無水芒硝で乾燥後濃縮し黄色油状の3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル酢酸エチルを10.29g得た。
得られた酢酸エチル体9.79gに無水酢酸9.6g及びオルトギ酸エチル8.4gを加え,3時間還流した。更に無水酢酸3.2g及びオルトギ酸エチル8.8gを追加し8時間還流した。反応液を濃縮し茶かっ色油状の2−(3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル)−3−エトキシアクリル酸エチルを9.73g得た。
得られた油状物9.73gをエタノール20mlに溶かし氷冷下シクロプロピルアミン2.0gを滴下した。室温で2時間攪拌後濃縮し残渣をシリカゲルカラムクロマト[溶媒:n−ヘキサン:酢酸エチル=5:1]で精製をおこない黄白色結晶の2−(3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロベンゾイル)−3−シクロプロピルアミノアクリル酸エチルを7.52g得た。
融点56〜58℃
元素分析値:C16 H16 F3 N O4
計算値:C;55.98,H;4.70,N;4.08
分析値:C;56.07,H;4.66,N;4.07
得られた結晶6.68gを無水ジメチルホルムアミド26mlに溶かし,フッ化ナトリウム1.31gを加え5時間還流した。冷後反応液を氷水100ml中に注ぎ,析出晶を 取して水洗し,これを酢酸エチルから再結晶して無色針状晶の1−シクロプロピル−6,7−ジフルオロ−1,4−ジヒドロ−8−メトキシ−4−オキソ−3−キノリンカルボン酸エチル(判決注・DFQのエチルエステル)を4.53g得た。
融点178〜180℃
元素分析値:C16 H15 F2 N O4
計算値:C;59.44,H;4.68,N;4.33
分析値:C;59.34,H;4.59,N;4.33
次いで,この結晶4.5gに酢酸30ml,濃硫酸4ml及び水22mlの混液を加え1時間還流した。冷後氷水100mlを加えて析出晶を 取し,水洗後乾燥して無色粉末の目的物(判決注・DFQ)を4g得た。
融点185〜186℃
元素分析値:C14 H11 F2 N O4
計算値:C;56.95,H;3.76,N;4.74
分析値:C;59.68,H;3.70,N;4.74」(甲第4号証11頁右下欄7行〜12頁左下欄12行)
3 取消事由1(先願明細書の参考例1に記載された物質がMTFBAであるとした誤り)について
(1)
審決は,「上記のようにアミド体が(A)工程により製造でき,アミド体が酸により加水分解されカルボン酸になることは,先願の出願時において技術常識ともいえる事項であること(例えば,「化学大事典 第3巻」,第884〜885頁,「酸アミド」の項参照)を考慮すれば,(A)工程で得られたアミド体に(B)工程において18規定硫酸を作用させて生成する無色針状結晶は,本件化合物である3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(MTFBA)であるといえる。そして,元素分析値に基づく組成も,(B)工程の生成物がMTFBAであることを支持している。ただ,(B)工程の生成物(判決注・本件生成物)の融点が98〜101℃であり,本件特許の請求項1のMTFBAの融点115〜117℃と相違するが,(B)工程の原料,処理手段,元素分析値を考慮すれば,生成物はMTFBAでしかあり得ない。また,先に述べたように,このカルボン酸を原料として,先願明細書及び本件特許明細書のいずれにおいても,同様の反応により同一の化合物であるDFQ及びそのエチルエステルを得ていることからも,融点の相違はあるとしても,(B)工程の生成物は,MTFBAであるといえる。そうしてみると,先願明細書に記載されるMTFBAは,「出願時の技術常識を参酌しても,当該化学物質を製造することが当業者にとって可能であるとはいえないとき・・・に該当しないので,先願明細書に記載された発明であり,依然として本件特許発明は,先願明細書に記載された発明と同一であるというべきである。」(審決書8頁20行〜9頁1行)と認定判断した。
原告らは,本件生成物は,融点が真のMTFBAの融点と異なるため,MTFBAであるとすることはできないから,先願発明は,特許法29条の2に基づき訂正発明を排除する効力を有しない,と主張する。
(2)
特許法29条の2は,特許出願に係る発明が,当該特許出願の日前の他の特許出願又は実用新案登録出願であって,当該特許出願後に特許掲載公報,実用新案掲載公報の発行がされたものの願書に最初に添付した明細書又は図面に記載された発明又は考案と同一であるときは,その発明については,特許を受けることができない,と規定している。
訂正発明が物の発明であることは明らかであり,審決は,物の発明である訂正発明との同一性を判断するに当たって,これと対比されるべきもの(先願発明)として,先願明細書において(B)工程の目的物質,すなわち,同工程によって得られる物質として開示された物質(本件生成物。同明細書においては,これは,3−メトキシ−2,4,5−トリフルオロ安息香酸(MTFBA)であるものとされている。)を挙げていることが明らかである。
訂正発明が物の発明であり,しかも,物の特定に当たり,当該物の製造工程や分析結果を用いることをするものではない以上,先願明細書の(B)工程の目的物質(本件生成物)を製造するための工程及び同工程によって得られた目的物質の分析結果自体は,本来,上記物質(本件生成物)を訂正発明との関係において特許法29条の2の規定する先願発明とするために必要不可欠なものというわけではなく,当業者が先願の願書に最初に添付された明細書等に記載された技術事項を理解し,これを実施することが可能であることを示すために,必要とされる場合があり得るにすぎないものということができる。
そうである以上,先願明細書には,当業者が,先願発明がそこに示されていること,及び,それが実施可能であることを理解し得る程度に記載されていれば十分であって,それを超えて,少しの誤りもなく完璧に記載されていることが要求されるものではないことは,いうまでもないところというべきである。
(3) 上記1,2で認定した訂正明細書及び先願明細書の記載によれば,次のことが明らかである。
@ 訂正明細書に記載された工程においても先願明細書に記載された工程においても,アミド体を原料として,これを酸により加水分解することにより目的物質を得ている(弁論の全趣旨によれば,アミド体が酸により加水分解されカルボン酸(安息香酸)になることは,先願の出願時において技術常識であったことが認められる。)。
A 先願明細書には,(B)工程によって得られた本件生成物についての測定データとして,炭素と水素の分析値が(C;46.68, H;2.48)であることが記載されている。
この分析値は,MTFBAの化学式(C8H5F3O3)とその分子量(206.12)からの計算値(C;46.62, H;2.45)とほぼ一致しているということができる。
B 訂正明細書に記載された工程においても先願明細書に記載された工程においても,そこでMTFBAとされる物質から,同様の反応により,DFQ及びそのエチルエステルを得ている。
上記の点を総合すると,先願明細書に記載された本件生成物は,反対に解すべき特段の事情が認められない限り,MTFBAである,と認めるのが相当である。
(4)
原告らは,本件生成物は,その融点とされる「98〜101℃」の値が,MTFBAの正しい融点の値より15℃程度低いから,MTFBAではない別異の物質である,と主張する。
特開平10−59898号公報(甲第20号証)には,MTFBAの融点が「115.6℃−116.4℃」であるとの記載がある(段落【0075】)。この値は,訂正明細書に記載されたMTFBAの融点である「115−117℃」(甲第2号証の2の段落【0085】)とほぼ一致している。これらの記載と弁論の全趣旨とを総合すると,MTFBAは,少なくともほとんどの場合,上記「115.6℃−116.4℃」又は「115−117℃」といった値の融点を示すものと認められ,その意味で,上記の値がMTFBAの正しい融点の値であるということができる。したがって,先願明細書に記載された本件生成物の融点の値は,MTFBAの上記の意味での正しい融点より,15℃程度低いことになる。
一般的に,ある結晶性物質の融点は,その結晶性物質固有の値であり,化学構造が違えば融点も異なり,また異物の混入によって融点は降下するものであり,そのことから,その物質を判定し,その純粋性を判断するために用いられるものであることは,化学分野における常識であるということができる(甲第5,第6,第26号証)。このような結晶性物質の融点についての一般的な常識からすると,15℃もの融点の差は,それだけをみれば,本件生成物がMTFBAとは異なる物質であることを疑わせる資料であるということができる。しかしながら,有機化学[上](野副哲男ほか編著 昭和45年5月25日発行。甲第6号証)中には,「同一物質でありながら結晶内の分子の配列の相違によって異なった結晶形,融点を示すことがある。」(127頁の欄外の注)として,同一物質でありながら融点が異なる場合があることが記載されており,同記載によれば,不純物を多くは含まない物質についても,その融点が,MTFBAの正しい融点とされた上記値と異なるからといって,直ちにMTFBAではないとすることはできない,ということが可能である。
先願明細書に記載された融点の値がMTFBAの正しい融点の値と異なる原因については,誤記であるのか,それとも他の原因によるものであるかを特定することはできない。しかしながら,上記(3)で述べたとおりの,(B)工程の原料,処理手段,元素分析値や,その後の工程において,訂正明細書に記載されているところと同様に,MTFBAを原料として生成されるDFQ等の化合物が得られていることを総合するならば,上記融点の違いをもって,先願明細書に記載された本件生成物がMTFBAであると解することを妨げるものとすることはできないというべきである。
先願明細書に接した当業者は,上記融点の違いにかかわらず,上記他の記載を総合することによって,MTFBAがそこに示されていることを理解し,それが実施可能であることを理解するとみるのが相当である。
(5)
原告らは,審決が,上記融点の低下について,本件生成物にMTFBAの異性体である4−メトキシ体が混入したことによる,と認定したのは誤りである,と主張する。
しかしながら,審決は,融点が相違する可能性の一つとして,4−メトキシ体が混入した可能性を指摘したにすぎず,原因を断定したものでないことは,審決の記載から明らかである。原告らの主張は,審決の正しい理解に立ったものであるということはできず,採用することができない。
原告らは,審決が,元素分析の数値を根拠に「目的物」をMTFBAであると認定することは誤りである,と主張する。しかしながら,審決は元素分析値のみから,「目的物」をMTFBAと認定したものではないことは,審決書の記載自体から明らかである。原告らの主張は,審決の正しい理解に立ったものであるということはできず,採用することができない。
他に,先願明細書のアミド体と,MTFBA,およびDFQが,それぞれ先願明細書とは異なる製造方法によってそれぞれ別々に製造されたものであるとか,実際には製造されていないものを,便宜上一連の方法で製造されたと記載したにすぎないとかいった,反対に解すべき特段の事情があることを認めるに足りる資料は,本件全証拠を検討しても見いだすことができない。
(6)
以上のとおりであるから,取消事由1は理由がない。
4 取消事由2(先願明細書にMTFBAの合成のための中間体を製造することができるように記載されているとした誤り)について
(1)
審決は,「先願明細書の上記シアノ体からアミド体への加水分解反応の工程について,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」という,30%にも満たない濃度の硫酸を使用するという記載があり,これを追試した上記実験成績証明書A及びBでは,該反応が進行しないとされているとしても,上記刊行物1,2の記載からみて,シアノ体を加水分解して対応するアミド体を得る反応においては,80%程度以上の高濃度の硫酸を使用することが通常採用されている方法として技術常識であったといえるし,該アミド体生成物の融点130〜133℃が示されているから,当業者であれば,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」の記載のとおりに追試して,その反応が進行しなかったとしても,その30%にも満たない濃度の硫酸の記載が,この種の反応における技術常識からみて,適切でないものであることを理解して,高濃度硫酸を適宜使用することにより,該アミド体生成物の融点の記載を確認データとしつつ,過度の実験を要することなく該アミド体を製造することができたといえる。したがって,先願明細書は,MTFBAの製造方法における前記(A)工程のシアノ体からアミド体への加水分解反応の記載
において,「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」という一部の記載が適切でないものの,当業者であれば,該(A)工程の記載に基づいて,先願の出願時の技術常識を参酌することにより,そのアミド体を得ることができたといえる。」(審決書7頁末行〜8頁18行)と認定判断した。
(2) 原告らは,上記認定判断は,誤りである,と主張する。
先願明細書の(A)工程は,シアノ体を出発物質として目的物質であるアミド体を得るものであり,その反応はニトリルを加水分解することにより対応するアミドとするものである,ということができる。
ア ニトリルを加水分解することにより対応するアミドとする反応については,文献には次の記載があることが認められる。
@ 「新実験化学講座14 有機化合物の合成と反応II」(昭和52年12月20日丸善株式会社発行),第1151〜1153頁には,「5・7 酸アミドおよび酸イミド」の項の下に,「e.ニトリルからの合成 ニトリルは加水分解により第一酸アミドになる。この場合,反応条件によっては生成する酸アミドがさらに加水分解を受けてカルボン酸になるので,反応物質に応じた適切な条件を用いることが必要である。(i)酸加水分解 塩酸,硫酸などの鉱酸のほかにPPA,ギ酸あるいはLewis酸が用いられる(表5・31)。」と記載され,表5・31には,「ニトリルの酸加水分解による第一酸アミドの合成」のタイトルの下に「97%H2SO4」,「80%H2SO4」を使用した例が他の酸を使用した場合とともに示されている(甲第3号証)。
A J.Am.Chem.Soc.,73,5610(1951)(甲第17号証)には,トリエチル 5−カルバミル−6−メチル−2,3,4−ピリジントリカルボキシレートのアミド化について,「氷浴中で冷却された小フラスコ中のトリエチル 5−シアノ−6−メチル−2,3,4−ピリジントリカルボキシレート50g(0.15モル)に,10゜に予冷された97%硫酸100mlを加えた。・・・混合物の温度を時折冷却して35−40゜に維持した。1時間後,赤褐色の液体を砕氷400gに徐々にかつ撹拌下に注いだ。・・・結晶して,融点115−117゜の光沢のある白色板状物を得た」(翻訳文全文)ことが記載されている。
B テトラへドロン第23巻(1967)(甲第29号証)には,次の記載がある。
a 2−アミノ−3,4,5,6−テトラフルオロベンゾニトリルからのアミド化について,「アミノニトリル(4.75g)を36規定硫酸(判決注・96%硫酸)(10ml)とともに100℃で1時間加熱することにより2−アミノ−3,4,5,6−テトラフルオロベンズアミド(XXII);(4.3g),水から再結晶,融点140〜141℃,が得られる」(第4725頁下3〜下1行)
b 2−ブロモ−3,4,5,6−テトラフルオロベンゾニトリルからのアミド化について,「ブロモニトリル(5.1g)を36規定硫酸(10ml)とともに100℃で1時間加熱することにより2−ブロモ−3,4,5,6−テトラフルオロベンズアミド(XXV);(4.3g),水から再結晶,融点118〜119℃,が得られる」(第4726頁第17〜19行)
c 2,3,4,5−テトラフルオロ−6−ニトロ−ベンゾニトリルからのアミド化について,「ニトロニトリル(2.2g)を36規定硫酸とともに100℃で1時間加熱することにより2,3,4,5−テトラフルオロ−6−ニトロ−ベンズアミド(XXIX)(1.6g),クロロホルムから再結晶,融点124〜125℃,が得られる」(第4725頁下9〜下7行)
上記各文献の記載によれば,先願の出願当時において,シアノ体を加水分解して対応するアミド体を得る反応において,80%硫酸と同程度の濃度の硫酸,あるいはそれよりも高い濃度の硫酸を使用することが広く知られていたことが認められる。
イ これに対し,原告らは,ベンゼン環にシアノ基が直接置換したニトリル化合物(以下「芳香族ニトリル」という。)の具体的な個々の物質の加水分解反応に関し,加水分解する際に80%以上の濃度の硫酸を用いるものではない例,あるいは,80%以上の濃度の硫酸を用いた場合に対応するアミドが得られなかった例を示すものとして,次の各文献の記載を挙げる。
C 「N°79−アミノニトロフェノール−1−2−3から得られるいくつかの誘導体について」(1952。甲第10号証)
a メチル−2 ベンズオキサゾール カルボン酸−4アミド(XI)の対応するニトリル(X)からの製造について,「我々は,異なる濃度のさまざまな酸を用いて,多数の実験に着手した。最高の結果を提供する方法は,180〜190゜で3時間,密封した試験管内で単に水で加熱することによって最もうまく得られるアミドを経由する方法である」(翻訳文9頁下14〜16行)
b ニトリル(XV)すなわち,シアノ−2ニトロ−3 フェノール(XV)について,「酸によるケン化の試みはm−アミノフェノールの形成を伴う脱カルボキシル化をもたらすことが最も多く,そうでなければニトリルが無傷のまま回収される。これに対し,150℃で密封された試験管内でのSO4H24Nから,ニトロ酸のアミド(XVI)が得られる。ただしそれを酸に変換しようとする試みはことごとく失敗した」(翻訳文6頁式の下9〜12行)
D 「薬学雑誌」vol.75,p755−756「Radziszewsky法によるベンゾニトリル誘導体の鹸化」(1955。甲第11号証)
a 2,6−ジメトキシベンゾニトリル(IX)について,「Mauthner6)は(IX)を濃硫酸で鹸化して2,6−Dimethoxybenzamidを得ている」(755頁脚注の上4〜3行)
b 「2−Nitro−6−methoxybenznitril(I)に対する濃硫酸の作用」として,「(I)2gを66゜Be H2SO4
10ccに溶解,水浴(60〜65゜)内において2時間反応せしめた.冷却後混合物に約10倍量の水を加え,この場合の析出物を濾別濾液をエーテルで抽出.…m−Nitrophenolと混融するに融点の変化を認めない.」(756頁本文4〜下9行)
E 「J.Prakt.Chem.(2)121,259」(1929。甲第12号証)
a 2,6−ジメトキシ−1−ベンゾニトリル(III)について,「2,6−ジメトキシ−1−安息香酸への良好な収率での鹸化は,オルト位にある2個のメトキシ基の立体障害のために当初は非常に困難であった。最初の一連の実験では,濃硫酸を用い,種々の実験条件下で行ったが,しかし化合物が容易にスルホン化されるため失敗した。同様に…過酸化水素を用いる鹸化も,最近の…リン酸を用いる方法も好結果は得られなかった。遂に,25%カセイカリを用いる48時間の加熱による鹸化により満足できる収率を有する鹸化と認められることに成功した」(翻訳文1頁下から2行〜2頁5行)
b 「実験の部」におけるその「最初の一連の実験」について,「最初の鹸化実験を濃硫酸および適度に薄めた硫酸を用いて行った。2,6−ジメトキシベンゾニトリル2gを濃硫酸10ccmと一緒に2時間,60〜65℃に加温し,・・・アミド0.2gが得られた。・・・ニトリル2gを濃硫酸9ccmと水3ccmの混合物と一緒に,1時間,水浴上で加温し,・・・アミド0.2gが得られた。」,「これより薄い硫酸を用いた場合には,シアン化物は変化しないままであった」(同3頁7〜17行)
c 「実験の部」におけるカセイカリを用いる鹸化について,「最後に鹸化を以下のように行って成功した。ジメトキシベンゾニトリル2gを磁器フラスコ(250ccm)中で水酸化カリウム50gと水100ccmの溶液と一緒に,48時間還流冷却器を用いて加温した。・・・分析によると,この化合物は2,6−ジメトキシ−1−安息香酸のアミドである。」(同3頁下から8行〜4頁2行)
F 「Biochem.Prep.11,p63−68」(1966。甲第14号証)
「70%(w/w)H2SO4 30ml…の温度が140℃に到達したときに,2−ニトロベンゾニトリル(…)を急速に添加し,温度を3時間138−140゜に維持する。反応フラスコをついで20゜に冷却し,この時点で2−ニトロベンツアミドが析出する」(翻訳文見出し下1〜4行)
G 「Recl.Trav.Chim.Pays−Bas.,31,298−349」(1912。甲第15号証)
a 「鹸化のために我々は,ニトリルを65%の硫酸と共に1日半沸騰させた3)。…粗製2.6.ジブロモベンズアミドを再結晶させた」(335頁2行〜336頁23行,翻訳文見出し下1〜3行)
b 上記注3)について,「生成物を79 1/2%の硫酸と共に加熱すると2分割が発生するが,これには酸の生成が伴っていた」ことが記載されている。
H 「J.Prakt.chem.(2)51,399−414」(1895。甲第16号証)
「o−ニトロベンゾニトリルのo−ニトロベンズアミドへの変換は,比重1.6の硫酸(水和物70%,水30%)を用いることにより,はるかに良好に達成できる…ニトリルから酸アミドへの,穏やかな,そして完全な変換を実行するには,その液状物を加熱して短時間煮沸させるだけでよい」(407頁下から12行〜408頁8行,翻訳文見出し下1〜6行)
上記各文献の記載によれば,芳香族ニトリルを加水分解して対応するアミドとする反応については,個々の好ましい反応条件はそれぞれの化合物に応じて様々であるということができる。しかし,上記各記載の大部分(摘示Ca,Ea,cを除く摘示Cb,Da,Eb,F,G,H)に示されているのは,@で摘示した「新実験化学講座」で一般的な反応として記載されているとおりの酸加水分解であること,しかもそのうちの一例(摘示Cb,4Nすなわち20%程度)を除いて濃硫酸,あるいはそれを少し希釈したものである65%以上の高い濃度の硫酸の存在下に行われていることが認められる。
硫酸加水分解以外の反応条件で対応するアミドがうまく得られるとするもの(摘示Ca,Ec)についても,Caには,「我々は,異なる濃度のさまざまな酸を用いて,多数の実験に着手した。」と記載されており,Ecについても,Eaでは,「最初の一連の実験では,濃硫酸を用い,種々の実験条件下で行った」として,先ず酸の使用を試みた後にその好ましい反応条件に至ったものであることが示されている上,硫酸の使用の試みにおいて,「うまく」あるいは高い収率では得られないものの,アミドが全く得られなかったとは限らないものであることが示されていると認められる(Eaの最初の一連の実験についての記載であると認められるEbには,濃硫酸やそれを希釈した硫酸でも「濃硫酸9ccmと水3ccmの混合物」(70%強と認められる。)までは対応するアミドが得られたことが記載されている。)。
また,対応するアミドが得られなかったとするもの(摘示Db)も,アミドを得るための反応条件としては濃硫酸を使用したものであることが認められる。
硫酸の添加量については,明示されているものにおいては,反応原料の数倍(摘示Ba,b)から,10数倍(摘示Bc,Db,Eb)であることが認められる。
さらに,個々の芳香族ニトリルの加水分解反応において,ほとんどが加熱をしていることから,加熱をすることもまた,芳香族ニトリルを加水分解した対応するアミドを得る反応において当業者の間で広く知られていた反応条件であると認められる。
ウ 上に述べたところによれば,芳香族ニトリルを加水分解して対応するアミドを得る反応においては,濃硫酸ないしそれを薄めた酸を使用し加熱条件下で加水分解することは,差し当たっては先ず試みるといえるほどに,当業者の間で広く知られていたことであるということができる。
そして,先願明細書には,(A)工程で採用されている酸による加水分解が格別の特色を持ったものであることを述べる記載は,問題とされている「濃硫酸8.5ml及び水40mlを加え」との記載以外には,存在しない。
そうである以上,先願明細書に記載された(A)工程の,硫酸を使用し加熱条件下で加水分解するという加水分解反応条件に接した当業者は,そこに示されたシアノ体からアミド体を得る反応は,基本的に芳香族ニトリルを加水分解して対応するアミドを得る反応において当業者間で広く知られていた酸加水分解反応を適用したにすぎないものであると理解し,その条件下でシアノ体の加水分解は進行し対応するアミドを得ることができるものであると理解すると認められる。
そして,たとい,参考例1に記載された(A)工程をそのまま追試してその反応が進行しなかったとしても,そのことは容易に発見され得ることであり,当業者は,記載された(A)工程のままでは反応が進行しないことを知るからこそ,むしろ,そのことにより,反応が進行しないということは同工程の反応条件が穏和にすぎることによると理解し,先願明細書に記載された(A)工程の具体的な反応条件を基にそのいずれかの条件を強めるように反応条件を調整し反応を進行させようとすることもまた,自然に行うところであると認められる。
他方,ニトリルを対応するアミドとする反応において,アミドからさらにカルボン酸に加水分解しないよう反応物質に応じた適切な条件を用いることが必要であること(摘示@),65%の硫酸とともに1日半沸騰させることにより生成したアミドを,より高い濃度の79 1/2%の硫酸とともに加熱すると酸が生成すること(摘示G),及び66゜Be H2SO4 のような100%に近い濃硫酸の存在下ではメトキシ基を有する芳香族ニトリルの種類によってはメトキシ基の脱離反応や脱炭酸反応が起こる場合があること(摘示Db),すなわち,反応条件が強すぎる場合にはメトキシ基の脱離反応やカルボン酸に至るまでの加水分解,さらには脱炭酸反応という副反応が起こる可能性があることも,知られていたと認められる。
このような技術常識を有する当業者は,参考例1に記載された(A)工程を追試して反応が進行しなかったときは,そこに記載された反応条件のいずれかの要素を強めるように反応条件を調整するものと,しかしメトキシ基の脱離反応やカルボン酸に至るまでの加水分解,さらには脱炭酸反応が起こるほどには強くはない条件に調整するものと,認められる。
副反応が起こるという知見は,反応条件の調整を困難とするものではなく,調整範囲を狭め,むしろ容易に調整を容易にする要素であると認められる。
個々の芳香族ニトリルを加水分解する反応条件として,アルカリ,水,希硫酸などのような上記高濃度の硫酸を使用する条件を用いないことが好ましいことを示す例(摘示Ca,b,Ec)があるとしても,当該反応条件は,他の上記各文献の記載に照らすと,芳香族ニトリルを加水分解して対応するアミドを得る反応において,当業者の間で広く知られていた反応条件であるとまでは認めることができない。
上記の反応条件の設定作業は,当業者が通常行う反応条件の設定作業の範囲内のものであり,過度の試行錯誤が必要なものであるとすることはできない。
先願明細書に,シアノ体からアミド体を硫酸存在下で加熱加水分解で製造することが記載され,そしてその具体的反応条件,さらに生成物の分離手段,そして生成物の融点が数値を伴って記載されているのであるから,当業者であれば,シアノ体からアミド体を製造することができるものであることを理解でき,その記載のまま実施して反応が進行しないときであっても,そこに記載された反応条件を適宜強める調整をすることによりアミド体を製造することができると認められる。
以上のとおりであるから,先願明細書の参考例1の(A)の反応工程は,アミド体を製造することができることを理解し得る程度に記載されているということができる。
(3)
原告らは,特許法29条の2の後願排除効が認められる先願発明というためには,当該発明が「完成された発明」として先願明細書に記載されていなければならないとし,先願明細書には,これをそのまま追試しても,本件生成物を全く得ることができないから,完成された発明として,先願明細書に記載されているということはできない,と主張する。
しかしながら,先願明細書について,これをそのまま追試することによっては本件生成物が得られなかったとしても,当業者が本件生成物を得られないということはできないことは,上に説示したところから明らかである。
原告らの主張を採用することはできない。
(4)
原告らは,先願明細書の誤記を訂正して解釈することができるためには,先願明細書の記載から誤記を訂正し得る製造方法が直接的かつ一義的に導き出せるものでなければならないとし,審決が,誤記を訂正して解釈することができる範囲についての判断を示さなかったことは違法である,と主張する。
しかし,先願明細書に(A)工程の目的物質として開示されている物質が特許法29条の2の先願発明としての要件を備えているか否か,と当該物質に関する先願明細書の記載について訂正が認められるか否かとは,互いに全く無関係であるとはいい得ないものの,判断基準を異にする異なった問題であり,仮に,上記先願明細書の記載に誤りがあり,その誤りが訂正審判によって訂正することは許されないものであるとされるにしても,そのことは,上記物質が特許法29条の2の先願発明に該当するか否かの検討において,上記の点について,上記のように扱うことの妨げとはならない,というべきである。原告らの上記主張は,上記のとおり互いに異なる二つの問題を同一視することによって,始めて成り立つものであり,前提において既に誤っており,採用することができない。
(5)
取消事由2も理由がない。
第6 結論
以上のとおりであるから,原告主張の取消事由はいずれも理由がなく,その他にも,審決の認定判断に,その結論に影響を及ぼす誤りは見当たらない。そこで,原告らの本訴請求を棄却することとし,訴訟費用の負担につき,行政事件訴訟法7条,民事訴訟法61条を適用して,主文のとおり判決する。
東京高等裁判所知的財産第3部(旧第6民事部)
裁判長裁判官 山 下 和 明
裁判官 高 瀬 順 久
裁判官阿部正幸は,転勤のため署名押印できない。
裁判長裁判官 山 下 和 明