◆H16. 2. 4 東京高裁 平成15(行ケ)330 特許権 行政訴訟事件
平成15年(行ケ)第330号 審決取消請求事件(平成16年1月21日口頭弁論終結)
判 決
原 告 エスケー化研株式会社
訴訟代理人弁理士 鈴 木 崇 生
同 尾 崎 雄 三
同 梶 崎 弘 一
同 光 吉 利 之
同 村 田 美由紀
被 告 特許庁長官 今井康夫
指定代理人 雨 宮 弘 治
同 西 川 和 子
同 佐 藤 修
同 一 色 由美子
同 伊 藤 三 男
主 文
特許庁が訂正2003−39034号事件について平成15年6月17日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
主文と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
原告は,発明の名称を「水性塗料用低汚染化剤,低汚染型水性塗料組成物及びその使用方法」とする特許第3073775号発明(平成10年7月21日出願〔国内優先日平成9年7月24日〕,平成12年6月2日設定登録,以下,「本件発明」といい,その特許を「本件特許」という。)の特許権者である。
本件特許につき,特許異議の申立てがされ,特許庁に異議2001−70412号事件(以下「本件異議事件」という。)として係属したところ,原告は,本件特許出願の願書に添付した明細書(以下「本件明細書」という。)の特許請求の範囲の記載等の訂正の請求をした。特許庁は,上記事件につき審理した結果,平成14年1月29日,「訂正を認める。特許第3073775号の請求項1ないし10に係る特許を取り消す。」との決定(以下「本件異議決定」という。)をし,その謄本は,同年2月15日,原告に送達された。
原告は,同年3月6日,本件異議決定の取消請求訴訟(当庁同年(行ケ)第111号事件,以下「別件訴訟」という。)を提起した後,平成15年2月19日,本件明細書の特許請求の範囲の記載等の訂正(以下「本件訂正」という。)を求める訂正審判の請求をし,特許庁に訂正2003−39034号事件として係属した。特許庁は,上記事件につき審理した結果,同年6月17日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同月27日,原告に送達された。
2 本件明細書の特許請求の範囲の記載
(1) 設定登録時のもの(以下,その明細書を「登録明細書」という。)
【請求項1】少なくとも1個のポリオキシアルキレン基及びアルコキシル基を有するアルコキシシランの変性縮合物であり,前記ポリオキシアルキレン基の繰り返し単位の炭素数が1〜4,前記アルコキシル基の炭素数が1〜4であることを特徴とする水性塗料用低汚染化剤。
(【請求項2】〜【請求項10】は省略。以下,上記【請求項1】の発明を「本件発明1」という。)
(2) 本件訂正に係るもの(以下,その明細書を「訂正明細書」という。なお,訂正箇所を下線で示す。)
【請求項1】少なくとも1個の繰り返し単位の炭素数が2,平均分子量150〜2000のポリオキシエチレン基及びアルコキシル基を有するアルコキシシランの変性縮合物(Si−C結合を有するものを除く)であり,水を含有せず,前記アルコキシル基の炭素数が1〜4であることを特徴とする使用時に混合する水分散性の水性塗料用低汚染化剤(水溶化されたものを除く) 。
(【請求項2】〜【請求項10】は省略。以下,上記【請求項1】の発明を「本件訂正発明1」という。)
3 審決の理由
審決は,別添審決謄本写しのとおり,特許請求の範囲の減縮を目的としてされた,本件訂正発明1に係る「(水溶化されたものを除く)」を追加する訂正事項(以下「本件訂正事項」という。)は,水性塗料用低汚染化剤が水溶化されていないものであることを示すところ,登録明細書には,当該低汚染化剤が水溶化されていないものであるとの記載がないこと等からすれば,当該事項は,登録明細書又は図面に記載された範囲内のものとすることはできないから,本件訂正事項に係る本件訂正は,特許法126条2項の規定を満足するものでないとした。
第3 原告主張の審決取消事由
審決は,本件訂正事項の解釈を誤り(取消事由1),また,本件訂正を不適法とした根拠となる法令の適用を誤り(取消事由2),さらに,本件訂正に係る他の訂正事項について審理不尽の違法を犯した(取消事由3)ものであるから,違法として取り消されるべきである。
1 取消事由1(本件訂正事項の解釈の誤り)
(1) 審決は,本件訂正事項の意義について,「『水溶化されたものを除く』という表現における『水溶化されたもの』は『水溶性化合物』に限られるものとすることはできず,前記表現は,『水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く』の意味と解され,『エマルションまで除くものではなく,水溶性化合物を除外するにすぎない』と解することはできない」(審決謄本4頁第1段落)と解釈したが,誤りである。本件訂正事項に係る「水溶化されたものを除く」とは,エマルションを形成する化合物と水溶性化合物との中から,後者のみを除くという意味に解釈されるべきであるから,特許請求の範囲の減縮に該当し,何ら新規事項の追加に当たるものではない。
(2) 学術用語として「水溶化」という用語は存在しないから,「水溶化」という語の解釈に当たっては,当業者の有する一般的技術常識に基づいてその意義を解釈すべきであるところ,「広辞苑第5版」(甲6)によれば,「水溶」とは「水に溶けること」(1412頁)であるとされ,また,「化」とは「形や性質が変わること。かえること」(423頁)であるとされているから,「水溶化」とは,「水に溶けない物の性質を水に溶ける性質にかえること」を意味するものであると理解される。そうだとすると,「水溶化されたもの」とは,「水溶化された化合物」,すなわち,学術用語である「水溶性化合物」と同義であると解するのが,最も自然かつ一般的な解釈であるというべきである。
他方,「エマルション」(「エマルジョン」ともいう。)とは,「乳濁液ともいう。液体中に液体粒子がコロイド粒子あるいはそれよりも粗大な粒子として分散して乳状をなすもの(分散系)」(昭和62年10月12日岩波書店発行「岩波理化学辞典第4版」〔甲7〕の143頁),「⇒コロイド;乳化重合;ラテックス」(平成6年9月30日丸善発行「Maruzen高分子大辞典」〔甲8〕の130頁)と説明されているとおり,「乳濁液」,「コロイド」と同義であるところ,この「エマルション」は,上記のような意味での「水溶化されたもの」,すなわち「水溶性化合物」の溶液とは明確に区別される。
また,本件異議事件及び別件訴訟において特許法29条の2に規定する引用例とされた特開平9−221611号(甲4)の明細書(以下「先願明細書」という。)においては,「水溶化」という語が使用されているところ,そこでは,エマルション,乳濁液,コロイドと「水溶化」とは明確に区別されて使用されているから,先願明細書にいう「水溶化された」とは,学術用語である「水溶性の」と同義であって,コロイド液であるエマルションを含まない概念であることは明らかである。
さらに,本件発明の属する水性塗料の技術分野における一般的技術常識を示す文献(昭和61年2月24日財団法人日本規格協会発行「塗料のおはなし」〔甲9〕,昭和49年5月25日高分子刊行会発行「新高分子文庫7・塗料用合成樹脂入門」〔甲10〕)や,それぞれ異なる企業の出願による水性塗料の技術分野に関する特許公報(甲11〜19)においても,エマルション(乳濁液,分散液)と水溶液とは異なる性質を示すものとして明確に区別して使用されている。さらに,一般的な辞典類(昭和39年2月15日共立出版発行「化学大辞典8縮刷版」〔甲21〕,同年3月15日発行「化学大辞典9縮刷版」〔甲22〕,昭和62年10月12日岩波書店発行「岩波理化学辞典第4版」〔甲23〕)においても,「分散」(甲21の178,179頁,甲23の2枚目)と,「溶液」(甲22の393,394頁,甲23の3枚目)とは完全に別項で説明されており,「溶液」,「溶解」と「分散」とが異なる概念であることも明らかである。
以上によれば,本件訂正事項に係る「水溶化されたもの」とは,「水溶性化合物」と同義であると解すべきであって,コロイド液であるエマルションを形成する化合物までもが含まれるものではないというべきであるから,審決の上記解釈は,誤りである。
(3) 審決は,「一般的な概念としては,溶液と分散液は別異の概念である」との請求人(原告)の主張に対し,「資料5,6,7(注,甲21〜23)で溶液或いは溶解が分散または分散系と別の項で説明されていること,および,資料8(注,昭和63年12月20日高分子刊行会発行『高分子ラテックス(新高分子文庫26)』〔甲24〕)で高分子溶液と高分子ラテックスが異なる存在形態として説明されていることを根拠とするものであるが,同じ概念でも別の項で説明されることはあるから,前者の別の項で説明されていることは必ずしも概念として異なることを示すものといえず,後者の存在形態の説明は,単に高分子溶液と高分子ラテックスの存在形態を説明したものであり,『溶液』と『分散液』を定義するものでないから,当該説明が溶液と分散液が別異の概念であることを示しているとすることはでき」ない(審決謄本3頁第4段落)と判断した。
しかしながら,甲21〜23のような辞典類において,同じ概念を別の項目で説明することが回避されるべきものであることは一般常識に属することであって,審決の「同じ概念でも別の項で説明されることはあるから,前者の別の項で説明されていることは必ずしも概念として異なることを示すものといえず」との判断は,失当というほかはない。また,甲24は,塗料などに使用される高分子ラテックス(エマルション)の存在形態に関する一般常識を示したものであり,高分子溶液と高分子ラテックス(エマルション)との相違を十分に説明するものであるから,この点においても審決の上記判断は誤りである。
(4) 他方,審決は,甲21に,「粒子が高分子の場合はコロイド溶液であり,また真の溶液でもある」との記載があること(179頁左欄)を,自らの結論の唯一の積極的な理由付けとしている(審決謄本3頁第4段落)。
一般的には,エマルションすなわちコロイドは乳濁液であるのに対し,真の溶液は透明な液であるとされるから,甲21の上記記載が意味するところは分かりにくい面があるが,甲22の記載を併せて読めば,「粒子が高分子の場合はコロイド溶液であり,また真の溶液でもある」とは,タンパク質やデンプン等の水溶性高分子化合物が水に溶解した状態でコロイドとしての性質を示すという特殊な例を示したものであると理解することができる。そうすると,当該記載がエマルション等の乳濁分散液を含む意味でないことは明らかというべきであるから,この記載を根拠に,本件訂正事項に係る「水溶化されたもの」にはエマルションを形成する化合物までが含まれるとした審決の判断は,誤りである。
(5) 別件訴訟において,被告である特許庁長官は,「『水溶化』という用語の通常の解釈としては,『水溶性』になるように化学変化させると解するのが自然である。特にこれと異なる意味に解すべき根拠はない」(平成14年9月2日付準備書面(第1回)〔甲5〕)と主張したにもかかわらず,審決は,上記のとおり,「『水溶化されたもの』は『水溶性化合物』に限られるものとすることはできず,前記表現は,『水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く』の意味と解され,『エマルションまで除くものではなく,水溶性化合物を除外するにすぎない』と解することはできない」と判断したものであって,別件訴訟における主張と矛盾する審決の解釈は,信義則に反するものというべきであり,到底許されるものではない。
2 取消事由2(法令の適用の誤り)
仮に,本件訂正事項に係る「『水溶化されたものを除く』という表現における『水溶化されたもの』は『水溶性化合物』に限られるものとすることはできず,前記表現は,『水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く』の意味と解され,『エマルションまで除くものではなく,水溶性化合物を除外するにすぎない』と解することはできない」との審決の解釈が正当であるとしても,その場合,本件訂正審判請求を不成立とする際の根拠法条は,本件訂正事項に係る本件訂正により,特許請求の範囲に記載された発明が発明の詳細な説明に記載したものではなくなったとみれば,訂正後の特許請求の範囲の記載が特許法36条6項1号に違反すること,すなわち,同法126条4項(独立特許要件違反)となるはずであるし,上記訂正により,特許請求の範囲が拡張又は変更されたとみれば,同法126条3項(請求の範囲の拡張又は変更の禁止)となるはずである。ところが,審決は,同法126条2項(新規事項の追加の禁止)を根拠法条としており,法令の適用を誤ったものというべきである。
また,特許庁の審査基準においては,「いわゆる『除くクレーム』とする補正は,新規事項の追加には該当しないものとして取り扱う」(甲27)と規定されており,審決の法令の適用は,特許庁自らが定めた上記基準にも違反している。
3 取消事由3(審理不尽の違法)
本件訂正における訂正事項は,本件訂正事項のほかにも多岐にわたり,それらは,本件発明と先願明細書記載の発明(以下「先願発明」という。)との差異を基礎付ける事項として意義を有するものであるが,審決は,本件訂正事項以外の訂正事項について一切審理することなく,本件訂正を不適法としたものであり,審理不尽の違法がある。
第4 被告の反論
審決に原告主張の違法はなく,原告主張の取消事由は,いずれも理由がない。
1 取消事由1(本件訂正事項の解釈の誤り)について
(1) 原告は,本件訂正事項に係る「水溶化されたものを除く」という表現は,「水溶性化合物を除く」という意味であり,水溶性化合物と区別される,エマルションを形成する化合物まで除く意味ではないと解すべきであるから,審決の本件訂正事項の解釈は誤りである旨主張する。
しかしながら,「水溶化されたものを除く」という表現は,「水溶性になるような反応処理を受けたものは,その程度を問わず,すべて除く」の意味と解するのが自然であり,「水溶性になるような反応処理を受けたという点で共通し,反応処理の程度において相違するにすぎない関係にある,水溶性化合物とエマルションを形成する化合物とは,ともに除く」の意味であると解するのが相当である。その理由は次のとおりである。
ア 「水溶化」という用語は学術用語として存在しない。
イ 登録明細書中には,「水溶化されたもの」について定義するところがない。
ウ 「水溶化」という用語は,「水溶性」になるように化学変化させることと解するのが自然であり,これと異なる意味に解すべき根拠はなく,「水溶性」になるように反応処理をすることが「水溶化」であり,反応処理を受けた生成物が「水溶化されたもの」であると解される。
エ 「水溶化されたもの」という表現は,水溶化という反応処理を受けたものを示すにすぎず,反応処理の程度についてまで限定するものでない。したがって,前記表現は,水溶化という反応処理を100%達成して得られる水溶性化合物のみならず,水溶化という反応処理を施したものであれば,その反応処理の程度を問わず,すべて含むと解するのが自然である。
オ 水溶化という反応処理を施すと,本件のようなアルコキシシランの変性縮合物にあっては,その達成の程度によって,水溶性化合物とまではならず,エマルションを形成する化合物が生成される。
カ したがって,「水溶化されたものを除く」という表現は,水溶性化合物とエマルションを形成する化合物は,ともに除くの意味と解される。
(2) そして,登録明細書には,ポリオキシエチレン基および炭素数が1〜4のアルコキシル基を持つアルコキシシランの変性縮合物から成る水性塗料用低汚染化剤に関して,炭素数が1〜4のテトラアルコキシシランの縮合物をポリオキシエチレン基含有化合物と反応させる方法により得られたもののみが記載され,当該方法以外の方法によって得られたものについては実質的な記載がないところ,炭素数が1〜4のテトラアルコキシシランの縮合物をポリオキシエチレン基含有化合物と反応させる上記の方法は,アルコキシ基のすべてをポリオキシエチレン基含有化合物と反応させた場合,水溶性化合物を製造することも可能であると考えられることから,上記方法は,テトラアルコキシシラン縮合物を「水溶性」になるように化学変化させる,すなわち,水溶化する方法に該当すると解される。したがって,登録明細書には,「水溶化されたものを除く」もの,すなわち,水溶化されないものが実質的に記載されているとすることはできないというべきである。
(3) 以上の解釈は,以下に示すように,先願明細書(甲4)の記載からも支持されるものである。
すなわち,先願明細書には,「本発明の水性塗料用樹脂組成物には,前記(A)成分とともに(B)成分である一般式(1):・・・(R1O)4−a−Si−R2a (1)・・・(式中,R1は,炭素数1〜10のアルキル基,・・・aは0〜2の整数・・・)で表わされるシリコン化合物および(または)その部分加水分解縮合物(以下,シリコン化合物等(b)ともいう)を主成分とする水溶化せしめられてなる化合物が使用される」(段落【0109】〜【0111】),「(B)成分におけるシリコン化合物等(b)を水溶化する方法にはとくに限定はないが,水溶化の簡便さ,水溶化物の安定性などの点から・・・該シリコン化合物等(b)と(ポリ)アルキレンオキシド基を有する化合物とを反応させて水溶化する方法・・・が好ましい」(段落【0119】)と記載され,炭素数が1〜4のテトラアルコキシシランの縮合物をポリオキシエチレン基含有化合物と反応させる方法が上記テトラアルコキシシラン縮合物を水溶化する方法であることが示されている。
その上で,「前記(B)成分におけるシリコン化合物等(b)に由来する部分の含有率は,水への溶解性,水中での安定性の点から前述のごとく30〜95%,好ましくは40〜85%である」(段落【0142】)と記載され,水への溶解性が(B)成分におけるシリコン化合物等(b)に由来する部分の含有率により変化すること,換言すれば,水溶化物の水への溶解性は,水溶化物におけるシリコン化合物等(b)に由来する部分の含有率,すなわち,シリコン化合物等(b)の反応の程度によって変化するものであって,先願明細書にいう水溶化物は,水に完全に溶解する水溶性化合物のみを示すものでなく,水への各種の溶解性を示す化合物も含まれることが示されている。
さらに,水溶性化合物と水溶化する方法によって得られるものとの関係については,「(B)成分におけるシリコン化合物等(b)を水溶化する方法にはとくに限定はないが,水溶化の簡便さ,水溶化物の安定性などの点から・・・方法が好ましい」(段落【0119】),「前記(B)成分の固形分濃度は・・・の範囲が好ましい。固形分濃度が70%をこえると,水溶化物の安定性が低下してしまう傾向にあり・・・」(段落【0143】)と記載され,水溶化する方法によって得られるものは「水溶性化合物」でなく「水溶化物」と表現されている上,「前記シリコン化合物等(b)とポリアルキレンオキシド基を有する化合物とを反応させる方法としては,たとえばポリアルキレンオキシドアミン化合物をアルコール中に溶解しておき,クロロアルキルトリアルコキシシランをゆっくりと加えて反応させ,水溶性化合物をうるなどの方法があげられる」(段落【0135】)との記載においては,「水溶性化合物をうる」の次に「など」と記載されており,水溶性化合物を得る方法が水溶化物を得る方法の一例であること,すなわち,水溶性化合物が水溶化する方法で得られるものの一態様にすぎないことが示されている。
(4) 原告は,コロイド液であるエマルションと溶液とは明確に区別される概念であるなどと主張して,本件訂正事項に関する審決の解釈を論難する。
しかしながら,エマルション(=乳濁液,コロイド),エマルション塗料,水溶液,水溶液塗料,溶液,溶解,分散という用語は,ともに溶媒中に溶質が分散した状態に係る用語であり,分散状態を区別して表現することが要求される場合に,異なる表現で示すことは当然であるから,「溶液」と「溶解」と「分散」とが,区別して,又は,異なるものとして用いられるとの理由によって,それらが異なる概念であるとすることはできない。
「水溶化」という表現は,水溶性になるように反応処理すること,すなわち,反応方法が水溶化という方法であることを示すものであるところ,反応方法は必ずしも物質の分散状態と対応するものではないから,反応方法の特定が分散状態に係る概念を規定していると断定することはできない。また,「水溶性」という表現は,物質の性質が水に溶ける性質であることを示すものであり,反応方法と必ずしも対応するものではない。したがって,「水溶化された」という表現が「水溶性の」という表現と同じ意味であるとすることも,「コロイド液であるエマルションを含まない」という分散状態に係る概念を示しているとすることもできない。
また,溶液が溶媒中に溶質が分散した状態に係る用語であることは,原告の引用する甲9,21のほか,平成8年3月28日日刊工業新聞社発行「理工学辞典」(乙1),平成元年10月20日東京化学同人発行「化学大辞典」(乙2)によっても示されるところである。
以上によれば,「水溶化された」は,学術用語である「水溶性の」と同義であり,コロイド液であるエマルションを含まない概念であるとする原告の主張は誤りである。
(5) 原告は,別件訴訟における被告の主張と審決の解釈とが矛盾しており,信義則に違反するとも主張する。
しかしながら,別件訴訟の被告準備書面(甲5)において,被告は,「水溶性化合物」について言及していない。また,同準備書面では,シリコン化合物等(b)と(ポリ)アルキレンオキシド基を有する化合物とを反応させて水溶化する方法のような反応処理をすることが水溶化であり,反応処理を受けた生成物が「水溶化」された化合物であると主張しているにすぎず,上記「水溶化されたもの」という表現における水溶化の程度については言及していないから,上記「水溶化されたもの」が,水溶化という反応処理が100%達成された「水溶性化合物」のみを示すとの主張はしていない。
したがって,別件訴訟における被告の主張と審決の解釈とは何ら矛盾しておらず,信義則に反するとの原告の主張は失当である。
(6) 以上によれば,登録明細書にエマルションを形成し得る化合物が記載されているとの原告の主張を斟酌しても,当該主張は,本件訂正後において除外されるものであるエマルションを形成し得る化合物が登録明細書に記載されていることをいうにすぎず,登録明細書に,水溶化されない「水溶化されたものを除く」ものが実質的に記載されているとするものではないから,「水性塗料用低汚染化剤(水溶化されたものを除く)」が,登録明細書に記載された範囲内のものであるとすることはできない。したがって,結局,本件訂正事項に係る本件訂正は,特許法126条2項(新規事項の追加の禁止)に違反するといわざるを得ず,審決の判断は正当というべきである。
2 取消事由2(法令の適用の誤り)について
原告は,審決が特許法126条4項又は3項ではなく,同条2項を根拠法条としたのは,法令の適用を誤ったものである旨主張する。
しかしながら,特許法126条2項の規定は,同条1項ただし書に該当する訂正であっても,その訂正は願書に添付した明細書又は図面に記載した事項の範囲内においてしなければならないというものであり,その適用について同条3項及び4項を満足するものに限るとする理由はない。そして,本件訂正事項に係る「水性塗料用低汚染化剤(水溶化されたものを除く)」とする訂正は,本件訂正前の「水性塗料用低汚染化剤」に「(水溶化されたものを除く)」との限定を付与するものであるという点において,形式的には特許請求の範囲を減縮を目的とするものであると解することができるものの,その内容は,上記1のとおり,実質的に,登録明細書に記載した事項の範囲内であるとすることができない内容であり,同条2項の規定を満足するものでないことは明らかである。
また,本件訂正事項については,原告主張の審査基準(甲27)に照らしても,新規事項の追加に当たらないとされる例外に該当するとすることはできない。すなわち,上記審査基準は,訂正後の「除くクレーム」で表現される内容が,訂正前の明細書に記載した事項の範囲内のものであることを前提としていると解されるから,本件訂正事項のように,訂正後の「除く」を付した内容が,訂正前の明細書に実質的に記載されておらず,訂正前の明細書に記載した事項の範囲内であるとすることができない場合についてまで,例外として許容するものではないというべきである。さらに,上記審査基準は,発明の適正な保護という観点から,明確な事項のみを除外する場合に例外として「除くクレーム」を認めるという趣旨であると解されるところ,本件訂正事項に係る「水溶化されたもの」という用語は,学術用語等,発明を規定する用語として確立した用語ではない上,別件訴訟においてその解釈が争われ,結論が得られていない用語を意識的に用いたものであって,除外される内容が明りょうであるとすることができないものであるから,その点でも,本件訂正事項を上記審査基準に係る例外に該当するとすることはできない。
以上によれば,本件訂正は,特許法126条2項の規定を満足するものでないとした審決に法令の適用の誤りはないから,原告の上記主張は失当である。
3 取消事由3(審理不尽の違法)について
原告は,本件訂正事項以外の訂正事項について一切審理することなく,本件訂正を不適法とした審決には,審理不尽の違法がある旨主張する。
しかしながら,本件訂正は,本件訂正事項に係る訂正を含むものであるところ,当該訂正が新規事項の追加に該当し許容されるものでないことは,上記1のとおりであり,そうとすれば,本件訂正事項以外の訂正事項をいかに検討したとしても,それによって,本件訂正が認められることはあり得ないのであるから,審理不尽であるとの原告の主張は失当である。
第5 当裁判所の判断
1 取消事由1(本件訂正事項の解釈の誤り)について
(1) 審決は,「訂正後の請求項1に係る『(水溶化されたものを除く)』を追加する訂正事項(注,本件訂正事項)は,水性塗料用低汚染化剤が水溶化されていないものであることを示すものであるところ,訂正前の願書に添付された明細書(注,登録明細書)には,当該低汚染化剤が水溶化されていないものであるとの記載はなく,当該低汚染化剤の水中での分散状態に関する唯一の記載である『本発明の低汚染化剤は,・・・水中での分散性が向上するため表面への配向性に優れ,親水性の塗膜表面が形成され,優れた非汚染性を有することがわかった。』(公報〔注,甲2〕16欄44〜48行参照)との記載も,低汚染化剤の分散性が向上したことを示すにとどまり,分散性がどのような状態であるのかまでは明らかにしていないから,当該分散性が水溶化していないものの示す分散であると断定することはできないうえに,当該低汚染化剤の製造方法が特開平9−221611号公報(先願明細書)に水溶化する方法として記載されたものと区別できないものであることを考慮すると,前記分散性は水溶化されたものの分散性を示していると解することも可能であるから,前記した唯一の記載が,水溶化されていないものの分散性を示している,すなわち,低汚染化剤が水溶化されていないものであることを示していると断定することはできない。したがって,訂正後の請求項1に規定された『水性塗料用低汚染化剤(水溶化されたものを除く)』が,訂正前の願書に添付した明細書または図面に記載された範囲内のものであるとすることはできない」(審決謄本2頁最終段落〜3頁第2段落)と説示して,「本件訂正は,特許法第126条第2項の規定を満足するものでなく,認めることができない」(同4頁最終段落)と判断した。
以上に加え,審決が,請求人(原告)の「『水溶化されたものを除く』との構成は,エマルションまで除くものではなく,あくまで,分散液の1下位概念である『水溶性化合物』を除外するにすぎません」(審決謄本3頁第3段落)との意見に対し,「『水溶化されたものを除く』という表現における『水溶化されたもの』は『水溶性化合物』に限られるものとすることはできず,前記表現は,『水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く』の意味と解され,『エマルションまで除くものではなく,水溶性化合物を除外するにすぎない』と解することはできない」(同4頁第1段落)と説示していることからすれば,審決は,本件訂正事項に係る「水溶化されたものを除く」の意義について,「水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く」の意味であると解釈した上で,登録明細書には,「水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるもの」ではない「分散性」のものが記載されているとは認められないから,本件訂正事項に係る本件訂正は,登録明細書又は図面に記載した事項の範囲内においてしたものとは認められない旨判断したものであると解される。
(2) 上記のとおり,審決の判断は,本件訂正事項に係る「水溶化されたものを除く」の意義について,「水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く」の意味であると解釈することを前提とし,被告もその旨主張するところ,原告は,上記「水溶化されたものを除く」とは,「水溶性化合物を除く」との意味に解釈されるべきであって,特許請求の範囲の減縮に該当し,何ら新規事項の追加に当たるものではないから,本件訂正事項に係る本件訂正を不適法とした審決の上記判断は誤りである旨主張するので,以下,訂正明細書(甲3の2)の記載に基づき,本件訂正事項の意義について検討する。
ア 本件においては,「水溶化」という用語が,学術用語(特許法施行規則様式29備考7参照)ではないことは当事者間に争いがないところ,被告は,「水溶化」とは,「水溶性になるように化学変化させること」であり,「水溶化されたもの」とは,「水溶化という反応処理を施したものであれば,その反応処理の程度を問わず,すべて含む」ものであると解するのが自然である旨主張する(上記第4の1(1))。
しかしながら,「水溶化されたもの」という語の通常の用例からみて,水溶化という処理方法を規定したものではあっても,処理の結果得られた生成物の性質を必ずしも規定するものではないとの被告の解釈(上記第4の1(5)参照)はいささか分かりにくく,「水溶性になるように化学変化させること」が「水溶化」であるとしつつ,結果として得られた生成物が水溶性にならない場合においても,当該化学変化を水溶化ということができるのかという疑問があるというべきである。さらに,「広辞苑第5版」(甲6)によれば,「水溶」とは「水に溶けること」(1412頁)であるとされ,また,「化」とは「形や性質が変わること。かえること」(423頁)であるとされており,「水溶化」とは,「水に溶けない物の性質を水に溶ける性質にかえること」を意味するものであると理解し得ることからすれば,「水溶化されたもの」とは,被告の上記主張とは異なり,処理の結果得られた生成物の性質を規定したものであると解する余地も十分にあるというべきであって,少なくとも,被告が主張するように,「水溶化されたもの」とは,「水溶化という反応処理を施したものであれば,その反応処理の程度を問わず,すべて含むと解するのが自然である」とまでいうことはできない。
他方,原告は,「水溶化されたもの」とは,「水溶化された化合物」,すなわち,学術用語である「水溶性化合物」と同義であると解するのが自然である旨主張する(上記第3の1(2))が,これについても,「水溶化されたもの」が学術用語である「水溶性化合物」と同義であれば,端的にそのように記載すれば足りるのに,本件訂正に当たり,あえて,「水溶性化合物」という学術用語を用いなかった以上は,それとは異なる意味を有すると解する余地があるというべきであるから,結局,本件訂正事項に係る「水溶化されたもの」の意義については,訂正明細書の特許請求の範囲の記載だけからは,文言上一義的に明確に理解することができるとはいえない。
イ そこで,本件訂正事項の意義を解釈するため,訂正明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌する。
訂正明細書(甲3の2)の発明の詳細な説明には,本件訂正発明1の低汚染化剤の具体的な製造方法として,「たとえばアルコキシランの縮合物の1種又は2種以上の混合物を,ポリオキシアルキレン基含有化合物の1種又は2種以上でエステル交換反応させる方法,カップリング剤を用いて付加反応させる方法等が例示される」(6頁「(1)水性塗料用汚染化剤について」の項)との記載に続けて,「@)エステル交換反応」及び「A)カップリング剤による付加反応」の説明(6頁〜9頁)が記載されている。上記のエステル交換反応及びカップリング剤による付加反応は,いずれも,被告主張に係る「水溶性になるように化学変化させる」反応処理に該当するところ,「本発明の低汚染化剤の製造方法としては・・・方法は特に限定なく使用可能である」(6頁「(1)水性塗料用汚染化剤について」の項)との記載にもかかわらず,訂正明細書中には,上記「水溶性になるように化学変化させる」反応処理に該当しない製造方法については,実質的な記載は見受けられない。そして,上記のアルコキシシランの縮合物とポリオキシアルキレン基を含有する化合物とを反応させる方法については,ポリオキシアルキレン基の繰返し単位の数,アルコキシシランの縮合物における反応箇所の数には幅があり得ることからすれば,当業者は,それによって得られた変成縮合物が「水溶性」(分子単位で水中に分散可能な性質)を持つ場合と,水中でエマルションを形成する性質を持つ場合の双方が想定されているものと理解するものというべきである。
また,訂正明細書には,「本発明の低汚染化剤は,樹脂との相溶性が良好となり,高い光沢値が得られる。さらに,水中での分散性が向上するため表面への配向性に優れ,親水性の塗膜表面が形成され,優れた非汚染性を有することがわかった」(20頁)との記載があり,ここで「分散性」とあるのは,エマルションになっている場合があることを示しているものと理解される。
ところで,本件訂正発明1の特許請求の範囲は,「少なくとも1個の繰り返し単位の炭素数が2,平均分子量150〜2000のポリオキシエチレン基及びアルコキシル基を有するアルコキシシランの変性縮合物(Si−C結合を有するものを除く)であり,水を含有せず,前記アルコキシル基の炭素数が1〜4であることを特徴とする使用時に混合する水分散性の水性塗料用低汚染化剤(水溶化されたものを除く) 」(上記第2の2(2))であるから,被告主張のように,「水溶化されたもの」が「水溶化という反応処理を施したものであれば,その反応処理の程度を問わず,すべて含む」ものであると解釈したとすると,本件訂正発明1の水性塗料用低汚染化剤は,「(水溶化されたものを除く)」という本件訂正事項を付加することによって,エマルションを形成する化合物になる場合を含め,規定した物質がすべて除かれてしまうか,又は,登録明細書に記載されていない全く別の方法によって当該低汚染化剤を生成するという新規事項を付加したことによって,本件訂正発明1それ自体が無に帰してしまうという極めて不合理な結果を生ずることになる。
これに対し,原告主張のように,「水溶化されたもの」が「水溶性化合物」と同義であると解すれば,上記のアルコキシシランの縮合物とポリオキシアルキレン基を含有する化合物とを反応させる方法によって得られた生成物のうち,水溶性化合物となった場合を除外し,特許請求の範囲を,当該生成物がエマルションを形成する化合物となる場合のみに限定するとの趣旨であると合理的に理解することができ,以上の点は,訂正明細書に接した当業者が容易に理解するところであると認められる。
以上によれば,本件訂正事項に係る「(水溶化されたものを除く)」とは,「(水溶性化合物を除く)」の意味であると解するのが相当である。
ウ これに対し,被告は,審決の上記解釈は,先願明細書における「水溶化」の用語法によっても支持される旨主張する。
しかしながら,そもそも,本件訂正事項の解釈は,訂正明細書の記載と当業者の技術常識に即して行われるべきものであり,その際,先願明細書の記載は,当業者の技術常識を推知する一つの資料にはなるとしても,それ以上の意味は持たないというべきところ,本件においては,先願明細書における用語法が当業者の技術常識となっているとは,到底認めることができない。そうすると,仮に,被告主張のように,先願明細書における「水溶化」の語に関しては,「水溶化という反応処理を施したものであれば,その反応処理の程度を問わず,すべて含む」ものと解釈するのが相当であったとしても,それによって訂正明細書における本件訂正事項の解釈が左右される理由はないから,被告の上記主張は,採用の限りではない。
エ また,被告は,溶液とエマルションとは必ずしも概念的に截然と区別することができない旨主張し,審決も,「粒子が高分子の場合はコロイド溶液であり,また真の溶液でもある」との甲24の記述を引用する(審決謄本3頁第4段落)。
確かに,高分子の場合には,その分子の大きさにより1分子でコロイドを形成する場合も想定され,そうした場合には,「コロイド溶液であり,また,真の溶液でもある」と言い得るものと考えられる。しかしながら,本件訂正発明1の低汚染化剤は,特許請求の範囲に規定されるとおり,平均分子量150〜2000のものである(なお,発明の詳細な説明中,合成例1〔甲3の2の15頁下から第3段落〕の低汚染化剤は,分子量1000〜2000程度のものであると認められる。)ことからすれば,1分子単位で分散してコロイド状態になるほど大きな高分子化合物ではないと認められるから,本件において,実際に,「水溶性化合物」と「エマルションを形成する化合物」とが区別できないとの問題があるわけではない。したがって,被告の上記主張は,上記イの判断を左右するに足りないというほかはない。
(3) 以上によれば,本件訂正事項に係る「(水溶化されたものを除く)」とは,「(水溶性化合物を除く)」と同義であると解すべきであるのに,これを「(水溶化の程度を問わず,水溶化されたといいうるものはすべて除く)」の意味であると解した審決の解釈は誤りであるといわざるを得ず,審決のこの誤りが,本件訂正事項に係る本件訂正は登録明細書又は図面に記載した事項の範囲内においてしたものとは認められないとの審決の結論に影響を及ぼしたことは明らかであるから,原告の取消事由1の主張は理由がある。
2 よって,その余の点について判断するまでもなく,審決は取消しを免れず,原告の請求は理由があるから認容することとし,主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第13民事部
裁判長裁判官 篠 原 勝 美
裁判官 岡 本 岳
裁判官 早 田 尚 貴